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【リレーコラム】アスファルトを歩くーー社会現象としての道路の舗装(中川雄大)

PROFILE|プロフィール
中川雄大(なかがわゆうだい)
中川雄大(なかがわゆうだい)

東京大学大学院学際情報学府博士課程、日本学術振興会特別研究員。専門は都市研究。社会学の視点から、都市計画や建築などを通じた空間形成についての研究を行っている。主な論文に「都市計画導入期における「都市」概念の普及過程」『社会学評論』72巻2号(2021年)、「浅野セメント深川工場をめぐる問題史」『都市計画論文集』56巻1号(2021年)などがある。
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小学生の頃、少しだけ雨の日が楽しみだったのは、長靴を履き、水たまりや泥の上にあえて足を踏み入れてずんずん歩いていけることが、冒険心をくすぐったからかもしれない。
いつの間にか長靴を履くことが面倒になり、今ではよっぽどの豪雨でもない限り、雨の日でも普段どおりのスニーカーを履いて外出している。都市部において水たまりさえ注意深く避ければ、一日中湿った靴下の不快感に悩まされることもない。その結果、私たちはきわめて軽装備のまま雨を冒して外出することが可能となった。
しかし、雨のなか注意深く足元に目を向けてみると、雨水がアスファルトの路面に吸収されたり側溝へと流れたりしていき、路面になるべく水がたまらない仕掛けが施されていることに気付かされる(1)
このようなインフラに支えられているからこそ、私たちは雨の日でも泥に足を取られたり、靴下が水浸しになったりすることなく、普段どおりの靴で道を歩くことが可能なのだ。
雨だからといって、長靴に合わせたファッションに思い悩む必要もない。アスファルトは私たちの生活を文字通り足元から支えているのである。

文明を象徴したアスファルト

だが、言うまでもなく、このような安定した路面は一朝一夕に実現したわけではない。現在はアスファルトで覆い尽くされている東京も、100年前ではその悪路が有名であった。砂利道では晴れた日は乾燥して土煙が立ち込め、雨の日はぬかるみに足を取られることになる。
こうした状況下で、明治末期以降、徐々に普及し始めたのがアスファルト舗装である。舗装にもいくつかの種類があるが 、舗装表面にアスファルト混合物を用いたものが、アスファルト舗装であり、現在ではこれが日本の道路の90%以上を占めている。
アスファルト混合物は、粗骨材、細骨材、石粉によって構成され、それを接着するのがアスファルトだ。原油の精製時に生じる残留物であるこの物質は、低温では固体状に、高温では液体状になる特性を持ち、これらの骨材を結合させるための接着剤の役割を果たしている(峯岸編 2018)。 
このようにして、砂利道は次第にアスファルト混合物で固められていくこととなった。
現在では遊歩者として名高く、多くの都市論を著した永井荷風は、日和下駄を履き、蝙蝠傘を持って東京を歩いていたという。日和下駄とは、主に晴れた日に履く歯が比較的低い下駄のことである。永井はまさしく『日和下駄』と題されたエッセイの冒頭で、以下のように述べている。

日和下駄の効能といはば何ぞ夫不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日と雖も山ノ手一面赤土を捏返こねかえす霜解も何のその。アスフアルト敷きつめた銀座日本橋の大通、矢鱈に溝の水を撒きちらす泥濘とて一向驚くには及ぶまい。(永井 1932: 3)

ここで永井がアスファルトと泥濘について対比的に述べているように、当時の東京の路面は大通りから舗装が進められていく過渡期にあった。このような都市空間の変容は、1923年の関東大震災に伴う帝都復興事業によって急速に進むことになる。このときの舗装はアスファルトに限られなかったにせよ、震災前の1921年の舗装率は9%弱であったのに対し、1932年には82%まで達していた(吉川・田中 2009: 27)。
当時の東京にとってアスファルト道路は文明を象徴する存在でもあった。海外の道路の舗装具合は展覧会によって都市住民に観覧されたほか(中川 2021)、1931年には東京市等の後援のもと、都市美協会や交通協会等によって、「東京市道路祭」が開催されている。
現在の観点からすれば、「道路」を祭ることはずいぶん突飛なことのように思えるが、多くの税金を投じて道路を舗装し、かつその道路を清潔に保っておくためには、都市住民が「道路」の価値を尊ぶような意識の啓発が不可欠であった。
その際に配布されたパンフレットにおいても、震災前の道路が雨の日は道路が泥濘と化し、靴が取られて、ゴム長靴がなければ歩くこともままならないことが指摘されている(橡内編 1931)。アスファルトはそうした悪路を克服するための救世主であった。このようにして、近代文明は路面を飼いならしていったのである。
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