神奈川大学ほか非常勤講師。博士(社会学)。作田啓一を中心に、文学、批評との関連から、戦後日本社会における「社会学」のあり方を研究。著書に『作田啓一の文学/社会学 : 捨て犬たちの生、儚い希望』(2022、晃洋書房)。
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南米のどこかの断崖のほとり、紺碧の南の海の上に、ぽかりと浮んだ白い浄らかな円盤の姿は、地上の雑事やいがみ合いの世界から、私たちの心を、遠く天外へ拉し去ってくれました。(1)
以上の一節は三島由紀夫『美しい星』からの一節であり、自らを火星人だと信じる大杉という男性が主宰する「宇宙友朋会」の会誌に寄せられた、熱心な若手会員からの私信の中の一節である。
人はなぜUFOを見るのか。その要因としては、見間違いのほかにも、「UFOを見た」という特別の経験によって周囲の人の関心を惹くためという欲求も考えられる。しかし三島の記述はそうした説明とは別の動機を想定している。人はUFOを通じて「地上の雑事やいがみ合いの世界」、すなわち〈いま、ここ〉の世界から「離脱」したいという欲求を叶える。UFOには、ユートピア的想像力が作用しているのだ。
もちろん三島が書いた1960年代や「オカルトブーム」の1970年代とは違い、私たち現代日本人の大半は、すでにUFOを信じていないと思う。では、〈いま、ここ〉から「離脱」したいという欲求自体は、消えたのだろうか。
このコラムでも指摘されたことのある、日本の内閣府が、2021年3月に提示した「ムーンショット計画」(2)という資料を見てみる。その冒頭にある一文には、「身体、脳、空間、時間」が「制約」とされており、この一文に続く文章ではテクノロジーによってそれらの「制約」から「解放」された社会のヴィジョンが記述されている――ようだ。
「ようだ」としたのは冒頭の一文に立ち止まってしまったからだ。なぜ「脳」が「身体」から区別されるのかがわからないし、私たちを「制約」するものなど無数にあると思うのに、なぜこれらの四つだけが選ばれているのかもわからない――。
しかし、私が立ち止まったのは、この一文に『美しい星』の一節を連想してしまったからである。もちろん、宇宙人やUFOのふるさとである宇宙が地球から何光年も離れているのに対し、「ムーンショット計画」の描くテクノロジカル・ユートピアは「2050年」という時間的に遠い場所にある。しかし、どちらも〈いま、ここ〉から離れているという点においては変わりない。近年見るようになった、コンピューターや、コンピューター・ネットワークに構築された3次元のバーチャル空間を指す「メタバース」が「宇宙(universe)」を含むということは示唆的である。
つまり、「ムーンショット計画」は〈この世〉からの「離脱」の欲求の現代日本的な表現なのだ。先に「身体、脳、空間、時間」がなぜ「制約」とされているのかわからないと述べたけれども、それらは「離脱/解放」の対象である〈いま、ここ〉の象徴なのであろう。
佐藤俊樹が指摘したように、私たちはつい「新しいテクノロジーが社会を変える」という技術決定論を語るが、重要なことは、「社会」が新しい技術にどのような意味づけを行い、どのように使うか、である(3)(4)。
それを踏まえ、以下では、「身体、脳、空間、時間」という四つの「制約」の中でも「身体(body)」を議論の主題に据える。「身体」とバーチャル技術については、「ムーンショット計画」だけではなく、「バ美肉」(「バーチャル」の世界で「美少女」の姿を「受肉する」=手に入れること)や後述の「蘭茶みすみ」など、比較的、使用法の模索や意味づけが積極的に試みられており、現状でもある程度、議論を整理することができるからである。
もちろん新しい技術は実装段階にないので、使用法も意味づけも未定である。したがって、一部の人たちの使い方をさも「一般的な使用法」と考えて議論を展開することは、危うさが伴う。しかし、このエッセイでは、「ムーンショット計画」や「蘭茶みすみ」などの思想を「一般的な使用法」と考えるのではなく、そこで提示される論点の整理を課題とする。
具体的に言えば、以下では、テクノロジーを通じて「離脱」しようとする「身体」について、UFOないし宇宙人へのあこがれとの対比のなかで考えてみる。以上の作業により、「身体」とテクノロジーの関連の注意点を明らかにする。
先ほど、『美しい星』について、UFOを見たいという欲求は〈いま、ここ〉からの「離脱」である、と指摘した。実はこの指摘は、私オリジナルの解釈ではなく、社会学者の作田啓一によるものである。
作田は、1978年のある評論(5)で、UFOを見たいと願う現代人の心情を以下のように分析している。すなわち、作田によると、ホモ・サピエンスとしての人間の生は二つのシステムに拘束されている。一つは、「身体」に象徴されるような「物理‐生理的システム」であり、もう一つは村や家族、学校、国家のような「社会的システム」である。もちろんホモ・サピエンスには発達した大脳新皮質があり、「知性」によって、この二つのシステムの法則性をある程度は理解し、意識的に支配することもできる。
つまり「意識的存在」である人間は、これら二つのシステムの制約からある程度「自由」である。しかし人間は歯一本の痛みだけでも思考がその痛みに支配されたり、些細な人間関係のもつれにとらわれたりする。つまり人間はこれら二つのシステムから完全に自由にはなりえない。この人間固有の二重の拘束から、人間に普遍的なものとしての「離脱の要求」が生じ、それがUFOに投影されるのである。
では、なぜ三島が描いた「宇宙友朋会」会員のように、その要求がUFOに結び付くのか。作田によれば、第一の理由は「UFOは地球の物理的システムの法則から自由である」ことにある。ジグザグの動きや突然の出現と消失、猛スピードからの静止など、UFOの動きは地球の物理法則を無視しており、その意味で「自由」な存在なのだ。
第二の理由はもう少し「友朋会」的な論理に踏み込んでいる。今でもしばしば言われるが、「UFOはどうやら宇宙の別の太陽系から飛んでくる」とされる。UFOは「この世」ではなく「あの世」――「死後の世界」という意味ではなく「別の世界」という意味――に属す。しかも宇宙人には「意識」があるとされるので、彼らは私たちと違い「地上の雑事やいがみ合いの世界」からも完全に「自由」なのであり、私たち「人間の最良の部分の似姿」なのだ。
作田の見立てでは、第一の理由よりも第二の理由のほうが強い。私たちがUFOや宇宙人に惹かれるのは、「地上の雑事やいがみ合い」に満たされた「社会的システム」からの強い「離脱」の要求があるからなのである。
そして作田はさらに思考を飛躍させる。宇宙人はいわゆるグレイ型に象徴されるように、しばしば小柄で弱々しい「子ども」のような身体をしている。子ども時代は、社会生活で傷つくことなく、「存在の感情」(J-J.ルソー)とも言うべき、自分が生きていることそのものの歓びに満たされている。作田によれば、私たちが抱くUFOや宇宙人へのあこがれとは、そのような失われた「原初」への郷愁なのである。
「あつまれ どうぶつの森」や「バ美肉」など、日本国内では、アバター(バーチャル空間におけるプレイヤーの分身のこと)にしばしば「かわいい」見た目をしたキャラクターが使用される(6)けれども、作田の議論に従えば、「かわいい」とはほとんど「無垢(innocence)」と同義である。誤解を恐れずに言うならば、日常生活で傷ついた人びとがバーチャル空間において「美少女」などの「かわいい」キャラクターのアバターを使用する動機は、そうした人たちが、失われた「原初の/無垢な身体(innocent bodies)」を求めているからなのだ。
「無垢な身体」とは対照的に、「生身の身体(real bodies)」はただそこにあるだけで何らかの「意味」を示す媒体であり、コミュニケーションを一定の形に制約する(差別や偏見を助長する「スティグマ」として作用することもある)。「生身の身体」を伴う私たちの日常におけるコミュニケーションはノイズと誤解、摩擦にあふれている。「無垢な身体」は、そのようなノイズや摩擦によって「傷つくこと」への忌避に動機づけられているのである。
しかし、「無垢な身体」への願望を単に「摩擦やノイズを減らす」という意味にだけ解釈することは、おそらくできない。
しばしば哲学的なメディア論において議論されてきたように、「生身の身体」によって生じるコミュニケーションの摩擦やノイズを減らす努力は、究極的には「媒体そのものの廃棄」に帰結すると考えられる(7)。
その典型が、「蘭茶みすみ」である。「蘭茶みすみ」は2018年4月にVTuber(バーチャルユーチュバー)としてデビューした20代男性で、仕事から戻り、眠るまでの時間を「蘭茶みすみ」という「女性」として過ごしている(『毎日新聞』 2022年5月22日、東京朝刊)。
「蘭茶みすみ」は自身のnoteやオピニオン誌『情況』(2022冬号)に載せた論考「肉体廃止メタバース」などで、メタバースで好きにデザインしたアバターによって生きることを「存在の自己決定権」と見なし、「メタバースの世界で、自分が自由に存在するという活動を通じて、現実でも互いの在り方を認め合える世界を作っていきたい」、そのために、「まずは「存在」を自分でデザイン・表現できるようになり、生存と肉体を、社会と技術の機能により、いかに負担なく生きていけるかを考えていきたい」としている(8)。
自らの意思の及ばない「生身の身体=肉体」に付与される負担を限りなく減らしていくこと、それが「肉体廃止」という言葉に込められる意味である。
しかし「蘭茶みすみ」の思想で重要なことは、そのような「生身の身体=肉体を廃止する」という取り組みが、「アバター」というバーチャルな身体を獲得することによってなされる、という点である。言い換えれば、「生身の身体の廃棄」は「アバター」という「無垢な身体」に取り換えられているだけで、コミュニケーションの「媒体」としての「身体」それ自体は維持され続けてしまうのだ。
以上を踏まえるならば、「生身の身体」によって生じざるをえないコミュニケーションの摩擦やノイズを減らす努力、そしてその苦悩から逃れようとする願望は、「身体」を透明にすること(=「媒体」の廃棄)をめざしながらも、実際は、コミュニケーションを円滑に進めるための身体、言うならば、さも存在しないかのような「なめらかな身体」という「理想の媒体」をめざすことに帰結するのである。
しかし、「なめらかな身体」は「理想の身体」であるからこそ、非常に危ういバランスによって保たれている。
文章技術に「UXライティング」という技術がある。UXは「User experience」の略語で、「顧客体験」を意味する。UXライターの宮崎直人によると、製品やサービスを開発する際に、どうすれば顧客にとって快適で使いやすいものになるかをもとに考えられる要素がUXの領域になる(9)。
「快適で使いやすい」という点が重要である。同書の第6章で宮崎が指摘しているように、UXライティングはできるだけ顧客の「記憶に残さない」こと、「製品・サービスを利用する際に邪魔にならないこと」をめざす。したがってUXライティングにおいて優れたテキストは「まるでそこに存在していることに気がつかない」テキスト、「なめらかなテキスト」なのである。
しかし私たちにとって「快適であること」は「無駄を省く」だけで済むだろうか。「蘭茶みすみ」のインタビューが「在りたい姿」と題されていることからも想像できるように、私たちは、快適さだけでなく、より以上のもの、「理想」を求めてしまう。宮崎はコピーライティングの場合は「記憶に残る」ことが重要だとしているが、私たちはしばしば人生において、他人の「記憶に残る」ことを願ってしまう。あるいはユーザーインターフェース(UI)の一部としてのアバターやキャラクターに「美しさ」が求められることは、日常的にもよく見られてきたことである(10)。
「なめらかな身体」なる「理想の媒体」の希求は、「より以上の身体」というもう一つの「理想の媒体」への、終わりなき道のりでもある、ということだ。
以上、「制約としての身体」とテクノロジーについて述べてきた。まとめると、次の三つである。
まず、①私たちはテクノロジーを用いて、「生身の身体」によって生じざるをえないコミュニケーションの摩擦やノイズを減らそうとしている。次に、②その苦悩から逃れようとする願望は、コミュニケーションを円滑に進めるための「なめらかな身体」という「理想の媒体」をめざすことに帰結する。最後に、③「なめらかな身体」には、「より以上のもの」という意味の「理想」も含まれてしまうので、「よりかわいい身体」などを求める可能性があるということ。
以上の三つの論点は、「身体」とテクノロジーの議論においてはこれまでも繰り返し出てきたものである(11)。したがって結局のところ、考えなければならないのは、そして、どうにかしなければいけないのは、身体を「制約」と考える「社会」なのであり、「より快適に生きたい」という願望の「快適さ」を、より拡張することである。そのためには、「なめらかな身体」だけでなく、私たち自身の「ままならない身体」を愛せるような「社会」を作ることが必要なのであろう。私としては、テクノロジーはそのような「社会」のために役立ってほしいと願う。
(1)三島由紀夫、[1963] 2003、『美しい星』新潮社。
(2)内閣府、2021、「ムーンショット目標1」内閣府ホームページ(2022年6月17日取得、https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/sub1.html)。
(3)佐藤俊樹、2010、『社会は情報化の夢を見る[新世紀版]――ノイマンの夢・近代の欲望』河出文庫。
(4)例えば電話で「テレクラ」や「オレオレ詐欺」といった使用法を、その開発者たちが考えたとは思えない(吉見俊哉・若林幹夫・水越伸、1992、『メディアとしての電話』弘文堂)。
(5)作田啓一、1978、「UFOブームのなかで考えたこと」『潮』1978年6月号、潮出版社。
(6)「バ美肉」のジェンダーを研究した論考として、Bredikhina, Liudmila, and Agnès Giard. "Becoming a Virtual Cutie: Digital Cross-Dressing in Japan." Convergence (2022): 13548565221074812.
(7)蘭茶みすみ、2022、「「在りたい姿」でいるために - 毎日新聞を読んでくださった皆さんへ」、蘭茶みすみ 肉体廃止メタバース(2022年6月17日取得、https://note.com/lancia_misumi/n/n240a66ae4617)。
(8)今村仁司、1994、『貨幣とは何だろうか』ちくま新書。
(9)宮崎直人、2022、『秒で伝わる文章術』フォレスト出版。
(10) 「あつまれ どうぶつの森」(2020、任天堂)のプレイヤーの間では、「かわいくない」キャラクターの存在意義について議論がなされている。また、AIにおけるUIの「見た目」問題については、藤堂健世・佐久間洋司・大澤博隆、2020、「AI にジェンダーを組み込むことはどういうことか」『人工知能』35巻5号も参照のこと。
(11) 谷本奈穂、2019、『美容整形と化粧の社会[新装版]――プラスティックな身体』新曜社。