PROFILE|プロフィール
今関裕太
江戸川大学基礎・教養教育センター専任講師。専門は20世紀のアイルランド文学およびメディア研究。主要論文に「『フィネガンズ・ウェイク』のABCD」(『ユリイカ 』2023年7月号)、『攻殻走行圏』(『メディウム』第3号)、『ラカンとジョイスのR. S. I.』(『I. R. S. ――ジャック・ラカン研究』第21号)など。
小説の登場人物が身につける衣服は、作品舞台の時代背景についていろいろなことを教えてくれる。世界一難解な小説とみなされることも多い、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』(Finnegans Wake, 1939)を読む際にもそれは同様だ。主人公であるハンフリー・チムデン・イアーウィッカー(HCE)は、パブの店主やダブリンに横たわる巨人などさまざまな形象に姿を変えるが、本書第1巻第2章のある箇所においては20世紀初頭のアイルランド総督として現れ、大英帝国に併合され実質的には植民地支配されていたこの島で様々な事件に巻き込まれていく。
あるとき彼が、「印度ゴム製仏軍帽、大ベルト、獣火袋、青狐光のビロード、鉄騎隊の長靴、ヒンズー仕立ての太ゲートル、ゴム引きインヴァネス(in his caoutchouc kepi and great belt and hideinsacks and his blaufunx fustian and ironsides jackboots and Bhagafat gaiters and his rubberised inverness)」(FW 035.08–10;柳瀬尚紀訳『フィネガンズ・ウェイク』第I巻、河出文庫、2004年、76頁)という出で立ちで、ダブリン郊外のフェニックス公園を練り歩いていると、パイプを咥えた「下司男(cad)」に出くわす。この男は、アイルランド語と思しき言葉でHCEに挨拶したうえで、現在の時刻を教えてほしいと言う。すると突然、HCEは「基本的自由原理に基づいて、黙殺甲斐にしろ夜女害にしろ、肉体生命の志高の重要性を悟り(realising on fundamental liberal principles the supreme importance, nexally and noxally, of physical life)」(FW 035.21–23;柳瀬尚紀訳、77頁)つまり命の危険を感じ、懐から恐る恐る時計を取り出して時刻を教えようとすると、12時を告げる教会の鐘がちょうど鳴り響く。その後二人は世間話をしたうえで握手を交わし、和やかに別れるのだが、一体なぜHCEは、時刻を尋ねられただけで命の危険を感じたのだろう?また、それに先立って書き手が彼の服装を妙に丁寧に描写しているのはなぜだろう?
文学研究者のデイヴィッド・トロッターは、上記のような疑問に真正面から取り組んでいるわけではないものの、少なくともこの場面で下司男がHCEに対してあまり良くない印象を抱いたと推測している。その根拠として挙げられるのが、HCEが身につけていた「ゴム引きインヴァネス(rubberised inverness)」つまりゴム加工のインヴァネスコートだ。トロッターによれば、19世紀から20世紀初頭にかけて英国で製造されていたゴム加工のコットン製品は匂いがきつい場合が多く、特に雨にぬれると悪臭を放った。つまり、パイプの香りを味わっていた下司男は、HCEが着ているコートの匂いに気分を害されたのだと、トロッターは推理しているのだ(David Trotter, Literature in the First Media Age, Harvard University Press, 2013, pp. 111–115)。しかし、当時の都市部では至る所で漂っていたであろうゴム加工のコートが発する悪臭を感じたくらいで、なぜ下司男はHCEに殺意を抱いた(とHCEは考えた)のだろうか。