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2023.05.19

モノの持つ“面白さ”を体感できる、唯一無二の店舗「文化屋雑貨店」

誰にも青春時代において「一生忘れられないお店」が存在するとは思うが、筆者の中で「一生忘れられないお店」で一番に頭に浮かぶのは、やはり文化屋雑貨店だろう。
幸運にも筆者は1990年代に文化屋雑貨店の店舗に訪れ、買い物を楽しめた世代だが、文化屋雑貨店を知らない世代にお店の説明をするのは少々難しい。
「レトロでキッチュでなんだかよくわからないけど楽しいお店」としか説明しようがないのだ。文化屋雑貨店とはなんだったのか−−今回は青春時代に「雑貨」の楽しさを教えてくれたこのお店の魅力について振り返りたい。

開店当初の文化屋雑貨店

文化屋雑貨店は1974年に長谷川義太郎が創業した。
「文化屋雑貨店」の名を耳にすると、90年代の印象が強いかもしれないが、意外にも歴史は長く70年代からのスタートだ。
開店当初は、渋谷のファイヤー通りに店舗を構えていた。当時のファイヤー通りは、倉庫が多い場所だったが抜け道で車を止めやすく、またファッション業界の人々の往来を狙った立地でもあった。裏路地の店舗だったが、戦略どおりファッション業界の人々の目に留まり、開店当初から有名デザイナーやスタイリスト、物販のプロたちの間でたちまち話題になった。
靴下から食器までさまざまなモノを取り扱う「雑貨屋」というお店がなかった時代に、文化屋雑貨店はまさに「新しい」存在だったのだ。
 渋谷の店舗はスタイリストの目に留まり、スカーフや手袋などの小物類はファッション雑誌に度々紹介されるようになった(『CUTiE』別冊宝島 VOL.6 /JICC出版局)
渋谷の店舗はスタイリストの目に留まり、スカーフや手袋などの小物類はファッション雑誌に度々紹介されるようになった(『CUTiE』別冊宝島 VOL.6 /JICC出版局)
今では「雑貨」という言葉は当たり前になり、それに付随して「雑貨店」の言葉も一般的に使われているが、70年代頃はまだ「雑貨」というのは「日用品店」というカテゴライズだった。問屋から卸した日用品は一般的に販売されていたが、そこにクリエイティブな手を加えたり、デッドストック品を「雑貨」という形で販売したりしていたのは、文化屋雑貨店が初めてだった。
文化屋雑貨店の店内には、一つのお店に様々なモノが集結していた。
金太郎の腹掛けから、病院のパイプベッド、はたまたファッション小物からモグラ捕獲用の罠まで。それは、単純に「レトロ」という言葉では収まりがつかない、底抜けの自由さで溢れていた。
原宿の文化雑貨店と長谷川義太郎(画像出典元:『キッチュなモノから捨てがたきモノまで 文化屋雑貨店』長谷川義太郎 著 /文化出版局)
原宿の文化雑貨店と長谷川義太郎(画像出典元:『キッチュなモノから捨てがたきモノまで 文化屋雑貨店』長谷川義太郎 著 /文化出版局)
渋谷にあった文化屋雑貨店は、後にビルの建て替えのため1988年に原宿に移転することになる。かつて原宿の裏通りにあった文化屋雑貨店の店舗は記憶に残っている人もいるだろう。

創業者、長谷川義太郎の魅力

文化屋雑貨店を語るにあたって、創業者の長谷川義太郎の存在も欠かせない。
長谷川義太郎は武蔵野美術大学を卒業後、デザイン会社に就職した後、文化屋雑貨店を立ち上げた。東京都墨田区にて外科医の長男として裕福な家庭で育つが、病院を継がず美術の方へ進んだ。
「どういう生活をして、どういう生き方をしたら、自分にとって面白いのか」−−。
常に長谷川義太郎の考えは一貫していて、「一番面白そうなこと」選んでいた。
デザイン会社を経て、文化屋雑貨店を立ち上げてからの、経営者としての長谷川義太郎の手腕は凄かった。
販売する雑貨は長谷川義太郎が全国各地に飛び回り、おもにデッドストックの商品を仕入れていた。地方で売れないモノや変わったモノを渋谷で売ることによって、売れ残りの雑貨たちは「珍しく面白いモノ」として新しい価値とともに生まれ変わっていった。
また「ないものは作ればいい」という考えで、デッドストックにない雑貨は仲良くなった問屋に色指定やデザインをオーダーし、買い付けにとどまらず商品を作ることもあった。そうしていくうちに、次第に文化屋雑貨店のオリジナル商品も増えていくようになる。また、レトロでキッチュな中華系雑貨にもいち早く着目し、香港とも貿易を始め、文化屋雑貨店の世界はさらに広がっていった。
当初は荒物やデットストックのものが中心だったが、「売れるってわかっているものを仕入れて売ってもつまんない」「たくさん売れるようになった商品は、一番売れいてるときに売るのをやめる」という類を見ないマーケティング手法で、文化屋雑貨店で取り扱う商品もバリエーションが増えていった。
開店当初から「売れるものを作る」ことよりも、「面白いものを作る」ことを最優先し、情熱を注いできた。雑誌で文化屋雑貨店が紹介される度に商品は売れ、「東京の人気雑貨店」としての知名度もあがっていった。
定番商品として人気だった、画家・塗り絵作家である蔦谷喜一の絵柄の商品が売れたときには、きいちグッズだけで1日で260万、月で3,000万円もの売り上げがあったという。
「文化屋雑貨店」のアイテム「喜一シリーズ」。きいちグッズだけで1日で260万、月で3,000 万円もの売り上げがあったという(画像出典元:『キッチュなモノから捨てがたきモノまで 文化屋雑貨店』長谷川義太郎 著 /文化出版局)
「文化屋雑貨店」のアイテム「喜一シリーズ」。きいちグッズだけで1日で260万、月で3,000 万円もの売り上げがあったという(画像出典元:『キッチュなモノから捨てがたきモノまで 文化屋雑貨店』長谷川義太郎 著 /文化出版局)
また文化屋雑貨店の人気アイテムでもあった、「ひょう柄シリーズ」の柄も長谷川義太郎自身が手描きし、プリントで起こしたもの。
陶器類からカバン、テーブルまでオリジナル商品として「ひょう柄シリーズ」は販売されていたが、ここにも「ないものは作ればいい」という長谷川義太郎のこだわりが伺える。
「文化屋雑貨店」の人気アイテム「ひょう柄シリーズ」。人気アーティストなどからも人気を博した(画像出典元:『キッチュなモノから捨てがたきモノまで 文化屋雑貨店』長谷川義太郎 著 /文化出版局)
「文化屋雑貨店」の人気アイテム「ひょう柄シリーズ」。人気アーティストなどからも人気を博した(画像出典元:『キッチュなモノから捨てがたきモノまで 文化屋雑貨店』長谷川義太郎 著 /文化出版局)
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