原宿に来た者なら誰しも一度は訪れたことがあるであろう、「ラフォーレ原宿」。皆の知っているとおり、原宿の代表的な商業施設だ。
物心ついたときからその存在を知っており、気がつけば友人たちと時間を過ごす場所になっていたのはきっと筆者だけではないはずだ。
今年で45周年を迎えたラフォーレ原宿は、現在も若者を中心としてにぎわっている。
筆者の青春時代と比べると、ビル内のテナントはかなり変化したが、それでも常に最新のトレンドを感じることができる特別な場所なのは今も変わらない。
ラフォーレ原宿は現在までどのような時代を歩んできたのだろうか。
今回は青春時代だけではなく、大人になった私たちを今でも夢中にさせる、ラフォーレ原宿が生み出してきたクリエイティブとその軌跡について振り返りたい。
人気ブランドでにぎわった平成のラフォーレ原宿
ラフォーレ原宿が生まれる前の原宿はどのような街だったのだろうか。1960年代後半の原宿は、マンションの一室を借りてデザインから販売までを少数のスタッフで運営する「マンションメーカー」という小規模メーカーが出現した時代だった。
荒牧太郎の「マドモアゼルノンノン」や大川ひとみの「MILK」、松田光弘の「ニコル」、ファイブフォックスの「コムサ・デ・モード」など多くの才能が頭角を現した時代だった。
続々と登場したマンションメーカーのブランドは、1970年代のファッションをリードし、1980年代にはDCブランドへと発展していった。
マンションメーカーが多数入居した建物で「原宿セントラルアパート」という伝説的な建物がある。現在は東急プラザ表参道原宿に姿を変えてしまったが、かつては多くのクリエイターが入居し、この場所に事務所を構えることが文化人のステータスでもあった。
そのような背景のなか、ラフォーレ原宿は1978年に森ビル最初の商業施設としてオープンした。当初は高級婦人服ブランドを中心にテナントを揃えていたが、高級婦人服のテナントは原宿に集まる若者のニーズを捉えた品揃えを行わなかったため、売り上げは低迷。
明治通りを挟んで向かいにあった原宿セントラルアパートの方がはるかに人気を集めていた。
しかし、ラフォーレ原宿は1980年に大胆な経営方針の転換をすることになる。「MILK」、「ビギ」、「コムサ・デ・モード」、「VIVA YOU」、「バツ」など、原宿で人気のマンションメーカーを中心にテナントを入れ換え再起をかけた。
若者たちの支持を集めていた原宿のマンションメーカーへの方針転換は大成功を収め、ラフォーレ原宿の売り上げは右肩上がりとなる。ラフォーレ原宿に出店した原宿のマンションメーカーも、1980年代に入るとDCブランドと呼ばれるようになり、ラフォーレ原宿はDCブランドの本拠地としてファッションの流行発信地となった。
また1980年代初頭の原宿は、「原宿テント村」がオープンし、竹下通りと並んで多くの若者たちを集めるようになった。若者向けの衣料品やアクセサリー、タレントグッズやクレープ店などが集まった原宿は多くの若者を夢中にさせた。
こうした原宿テント村、竹下通りの活性化との相乗効果で原宿自体が「若者の街」として認知され、ラフォーレ原宿も一躍注目を集めるようになっていく。
1990年代に入ってもラフォーレ原宿は変わらず多くの若者を惹きつけた。当時のラフォーレ原宿には「スーパーラヴァーズ」「べティーズ・ブルー」「ヒステリックグラマー」と絶大な人気を誇ったブランドが多く入り、休日には各ブランドに憧れを抱きながらショップを訪れた者も多かった。
筆者の記憶にも当時のラフォーレ原宿は、人気ブランドの他にも、地下には「スイマー」などの雑貨のテナントが入っていたり、全フロアがとても煌めいて見えた記憶が残っている。
また当時のラフォーレ原宿の入り口は、待ち合わせ場所としても定番だったが、ストリートスナップ写真や美容室のカットモデルのスカウトの場所としても定番の場所になっていった。
1990年代は「CUTiE」「Zipper」「FRUiTS」とたくさんのストリートファッション誌が人気を博したが、雑誌に登場するストリートスナップや読者モデルの多くは、ラフォーレ原宿前でのスカウトが多かった。それほどに、ラフォーレ原宿がオシャレな若者が集う場所として世間的に認知されていたことが伺える。