お気に入りの洋服は、末永く愛用したい。そのために、定期的にクリーニングに出したり、ブラッシングしたりするだろう。もちろん、湿気や虫食いにも細心の注意を払っているはずだ。だが、気を使うべき点は他にもある。
今一度、自分のクローゼットの中をのぞいてみてほしい。満員電車のように、ジャケットやコートがぎゅうぎゅうに押し込まれて、形が崩れてはいないだろうか。そうでなくても、クリーニングハンガーをそのまま使ったり、スリムなハンガーで収納数を増やそうとしたりする人は多いだろう。
そこに待ったをかけるのが、中田工芸株式会社の代表取締役である中田修平さんだ。「人がジャケットを着ている状態の形がベスト」と語る中田さんは、「洋服の帰る場所」としてあらためてハンガーの魅力を発信している。今回、「ハンガーといえば中田」と言われるまでに成長した同社の活動をお聞きした。 PROFILE|プロフィール
中田修平(なかた しゅうへい)
1978年生まれ。アリゾナ大学ビジネス学部を卒業後、ニューヨークにて就職。2007年中田工芸に入社。同年に自社ブランドNAKATA HANGERを立ち上げ、東京青山にショールームを開設。従来のアパレル向けの販売のみに留まらず、家庭用やギフト・記念品用などハンガーの新たな市場を切り拓いた。2017年に三代目の代表取締役社長に就任してからはロンドンや香港でイベントを開催する等、海外進出も積極的に行っている。
ハンガーづくり事始め
まずは、ハンガーづくりに取り組まれた経緯を教えてください。
私の曽祖父にあたる要太郎が、大正6年に中田要商店という荒物屋を始めました。それを祖父の敏雄が引き継いだ際に、森山さ んというハンガーづくりの職人に出会ったことがきっかけだと聞いています。弊社は兵庫県で創業したので、当時は作った商品を神戸や大阪に持っていって販売していました。数ある商品の中で、ハンガーの需要が非常に高かったみたいです。
1950年頃になると、既製品が作られてアパレル業界が急成長を遂げます。この頃に百貨店からスーツやジャケットを掛けるハンガーを作ってほしいという依頼があり、ハンガー専門メーカーとして大きく発展していきました。
当時、ハンガーの重要性は十分に認識されていなかったと思いますが、どのようにして価値付けを行っていったのでしょうか。
私たちは、ディスプレイ用のハンガーに特化していったという経緯があります。と言うのも、昭和の頃までは木製ハンガーを作っているメーカーが日本各地にあり、それらの多くは家庭用のハンガーを作っていました。その後、プラスチック製や輸入品のハンガーなどが登場すると、価格や品質の面で対抗できなくなり、結果的に多くの企業が廃業に追い込まれました。そうした状況の中で、中田工芸ではアパレルメーカーさんや百貨店さんに「洋服を売るためのディスプレイ用ハンガー」を提案してきました。ディスプレイ用ハンガーというのは、既製品として形や色が決まっているものではなく、クライアントが求めるものを都度お聞きして作る別注品なんですね。
当時は、要望を聞きながら納期に合わせて作るのが非常に難しく、高度な技術力も必要でした。ですが、それに愚直に応えてきたことで、結果的に他社さんのハンガーづくりとは一線を画すことになりました。
2007年に自社ブランドNAKATA HANGERを立ち上げ、メイド・イン・ジャパンの上質なハンガーという地位を確立された経緯をお聞かせください。
1990年代のバブル崩壊、海外からの輸入品の増加によって、価格破壊が起こりました。今まで3,000円で売れていたものが、1,000円以下になってしまった。価格の低下に伴って、品質も悪化していきます。私の父も、このまま国内でハンガーを作り続けることが正しいのだろうかと悩んだようです。他社と同じように生産を海外に切り替えるとか、ビジネスモデルの転換が必要ではないかと考えました。
当時、今でも付き合いがある台湾のメーカーさんとの取り引きを始めたようですが、やはりうちにしかできないハンガーづくりのノウハウもあるため、国内の自社工場品と安価な輸入品の二刀流でいくことにしたようです。日本のアパレル産業の発展をハンガーで支えていくという強い気持ちがあったのでしょう。
NAKATA HANGER 誕生の背景には、インターネットの登場があります。1997年に父が今の中田工芸のホームページを独自で立ち上げたことで、一般の方とのつながりが生まれました。
そして、ブログを読んだ方から「私の服に合うハンガーを選んでほしい」という依頼があったんですね。「自分たちはハンガーに詳しいはずなのに、今まで言われたものしか作ってこなか った。この依頼には衝撃を受けた」と父は語っていました。
そこで、あらためて自分たちのハンガーの魅力や技術を広く知ってもらうために、NAKATA HANGER を立ち上げました。