2021.05.07

【対談】藤原辰史・山縣良和「循環と分解から見るファッション」

#特集001「生命の循環:装いの歴史と未来」
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ファッションレーベルwrittenafterwardsのデザイナーであり、ファッションを学ぶ場「ここのがっこう」の主宰でもある山縣良和氏とお送りする特集企画「生命の循環:装いの歴史と未来」。今回は、『分解の哲学』の著者であり食と農の歴史や思想を研究する藤原辰史氏をお迎えし、循環や分解という視点を通してファッションを見ていきます。

ファッションの循環、動物性や植物性の素材、さらにはそれに関わる菌の働きにまで着目して、本対談では衣服の分解から分解者としての私たちの営みまでを再考。手触りのあるシステムへ向かうための思想をお聞きしました。

PROFILE|プロフィール
藤原辰史

京都大学人文科学研究所准教授。農業史を専門に、20世紀の食と農の歴史や思想について研究を行う。分析概念として「分解」(ものを壊して、属性をはぎとり、別の構成要素に変えていくこと)と「縁食」(孤食ほど孤立してなく、共食ほど強い結びつきのない食の形態)を用いて、自然界と人間界とを同時に叙述する歴史の方法を探究している。著書に『縁食論』(ミシマ社)、『分解の哲学』(青土社)、『食べるとはどういうことか』(農山漁村文化協会)、『給食の歴史』(岩波新書)、『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房)など。2019年2月、第15回日本学術振興会賞受賞。

PROFILE|プロフィール
山縣良和

ファッションデザイナー。2005年セントラル・セント・マーチンズ美術大学ファッションデザイン学科ウィメンズウェアコースを卒業。2007年4月自身のブランド「writtenafterwards(リトゥンアフターワーズ)」を設立。2015年日本人として初めてLVMH Prizeノミネート。デザイナーとしての活動のかたわら、ファッション表現の実験と学びの場として「ここのがっこう」を主宰。2016年、セントラルセントマーチンズ美術大学ファッションデザイン学科との日本初の授業の講師を務め、2018年より東京藝術大学にて講師を務める。2019年、The Business of Fashionが主催するBOF 500に選出。

装いと循環・分解

山縣:

僕が現在制作で着目しているのはまさに「生命の循環」の中でファッションを捉えることです。循環の営みを調べていく中で、白川郷の養蚕業、和紙づくり、(蚕の糞や人尿等を活用した)火薬づくりが一軒の合掌造りの家で行われていることに着目しました。また、合掌造りは現在制作を行っているwrittenafterwardsのコレクションのタイトル「合掌」にもつながります。合掌造りの一軒の家で行われているのはまさに1つの巨大なコンポストのような循環のある営みで、それを参考に動物性(=シルク)と植物性(=和紙)と菌(=藍染)から作られる素材をもとに衣服を作ろうと思っています。

「合掌」というタイトルにしたのは、パンデミック化での人々の不安の中での「祈り」という意味合いも込めています。リサーチしていく中で、日本の伝統的な衣服の原料となる布やそれらを作る手法などを見ていくと、循環するシステムが当時からあったことが見えてきます。しかし20世紀に既製服の大量生産の時代となり、殆どの産業がが限界まで衰退してしまいました。

現代における循環が可能となる衣服を考えたときに、服が微生物の栄養分となって土壌が豊かになり、その土壌で育った栄養素の高い植物が私達の食にもつながるというシステムと衣服のデザインを両立させるプロジェクトを始めました。衣服の素材には和紙を薄く切り刻んで織物にしたものを使用しています。また、山梨の養蚕業をやられてる方から蚕の糞とか桑の葉など様々なものが混ざってる堆肥を頂いてきて、染色で使用した藍の青みがかったカスを混ぜてオリジナルの土壌を作りました。そして和紙で作った衣服をその土の上に置いてどのように土に還っていき、どのような土壌と植物が生成されていくか実験している段階です。

衣服の原料や作り方は20世紀以前の大量生産・大量消費のシステムが構築される前の段階に戻ると、様々な形で循環のシステムが形成されていて、それを今の最新技術と結びつけて研究すると実はこれからのヒントがたくさんあるんじゃないかと思っています。

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藤原:

私の著書『分解の哲学』では基本的に食べ物を中心に扱っているのですが、何事にも値段をつけて大量に作って大量に消費して、大量に廃棄するという資本主義社会に疲れてきているということに関して、ファッション産業と食の産業は原因を共有してると思うんです。要するにゴミの問題です。食べ物の廃棄に違和感と嫌悪感を抱く人がまだ少ないと思うのですが、私が最も違和感を抱くのは、商品化された食べ物がパッケージ付きのまま捨てられて、燃やされるんですよね。食べ物はかなり水分も含まれてるのに、膨大な油をかけてゴミとして捨てられて燃やされる状況に、資本主義の矛盾と限界を強く感じます。

服も大量に生産・消費されて、そのまま捨てられた後燃やされています。つまりファッション業界も食品業界も地球の環境汚染に多大なる貢献してるわけですよね。そんな中で、和紙の服に注目されて、和紙というのはみつまた、楮(こうぞ)など、日本列島の中に伝統的にあった里山の一つの生産様式ですけれども、それで作られたセルロースの結晶である和紙の服を(土に)戻してみるという山縣さんの実験は『分解の哲学』の中でも真剣にとらえられてなかったので、面白い試みだと思いました。

それとつながるのですけれども、稲村光郎さんの『ゴミと日本人』というすこぶる面白い歴史書によると、明治の初期は日本からの膨大な古着や古布が輸出産業として成り立っていたそうです。日本が外貨を稼ぐために膨大な(それこそ藍染のものも多かったでしょう)農作業の服とかボロを欧州に売っていた。実は、ヨーロッパの人たちはそれを原料として紙を生産していた。紙の成分として日本人が使っていた古布が再利用されるリサイクルが、明治の最初の頃にあった。

ちなみに、ボロはドイツ語で「ルンペン」と言われていて、ボロクズを着た人たちのこと「ルンペン・プロレタリアート」とマルクスは言ったわけです。まさにボロの服を着ているということが、ある意味で人の階級意識と差別意識を表す。しかもそのボロがリサイクルされている。ゴミから人間の歴史を見直すと、差別とリサイクルというふたつの面が同時に見えてくるわけです。

今の山縣さんの試みは、もしかすると、歴史的には循環していたはずの服を、もう一度大量燃焼の世界から引き戻し、土のサイクルに戻すきっかけを表現されているのではないかと私は思いました。それはおそらく歴史学的にも重要な観点です。そして、そのような循環のシステムがいわゆる差別構造にならない、つまり服が循環される行為に関わる人たちが、むしろ、これまで実現されたことがない社会を建設する側にいるんだっていう価値転換を『分解の哲学』で私は目指していました。

私は服の分解について考えてこなかったので、例えば古着の服を売るところがだんだんおしゃれな場所として認められてきてるのと同じように、服を大量生産・大量消費システムから引き離していく、このようなチャレンジングな試みを是非、伝えて頂きたいです。

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寝かせる・発酵を待つ

藤原:

また、「合掌」というテーマを設定されていると伺って、今試みてらっしゃるその表現の中に共同性みたいなものはどのように考えていらっしゃるのかなと考えました。例えば服が循環してたとしても、機械がそれをやってしまうとその大量生産・大量廃棄の疲れた社会に変わる社会として、無縁社会が、つまり、人間がつながりにくく、なんでも自己責任にされるような社会になってしまい結局意味がないと思うんです。

食べ物もそうで、食べ物も廃棄物を機械にポンと入れたら肥料になりました、それからそれを知らない人がトラックで運んで農家に売りました、素晴らしいエコですね、で終わるのであれば、たとえ地球が循環して温暖化が防がれるとしても、それは現在の無縁社会や、世界中の安い労働力を血眼になって漁るような経済をそのままにして、新しい管理社会を到来させるに過ぎません。これまでにはなかった縁がつむぎなおされる社会を形成する上では不完全だと思うんですよね。

『分解の哲学』で申し上げたかったのは、あるいは『縁食論』という本でもそう書きましたが、むしろそれに関わる、弱い目的を複数抱えた人々の賑わいみたいなものでした。山縣さんが「合掌」という言葉を使われてるところに、今の人たちにとってはめんどくさそうな人の繋がりというものに何か魅せられてるように私はお見受けしたのですが、その辺りを聞かせいただければと思います。

山縣:

「合掌」というテーマからは手を繋ぐとか、そういう意味で共同体的なものを表現してみたいなと思いました。今着目しているのが山梨の共同体で、元々は甲斐絹の産地でもあった場所です。現在そこでは様々な糸や織物、染色など布や服を作る工程に関わられている方が1000人ほどおられるとのことです。現地の方とお話する中で興味深かったのが、少なからぬ職人の方々は大量生産・大量消費の流れに沿っては全然動いていなくて、なぜかというと過去に大きな企業に納期や価格で散々振り回された挙げ句に国外受注に切り替えられたり、大手の倒産や過去があったようで、そのような大手からの圧力に対しての拒否反抗があるようなんです。

「織機を寝かせる」という言葉をよく使われるらしいのですが、例えば、大企業から大量に注文が来たが、いきなり注文が来なくなって潰れたところもたくさんある、だったら織機を止めておいた(寝かせた)方が長期的にはいいということのようです。産業効率で考えると、効率を重視したシステムでは織機をいかに止めないかが重要なのですが、様々な産地に出向きましたが、そんなことを耳にしたのは初めてです。

さらに驚いたのが、仕事が無い時は余裕のある大きな会社が家業として仕事に従事しておられる職人さんに仕事がなくても回るようにサポートを行っているようなんです。家や職人さんたちが潰れず、今後も続くように小さな共同体が出来ているそうなんですが、これからの社会における文化や伝統の持続可能性や「コモンの再生」を考える上でのヒントがあるように思いました。

藤原:

大量買い、大量発注で大量に生産するっていうやり方に絡め取られて、それに本当に疲れ始めてきている中で寝かすというのは、ある意味(資本主義的な)大きな回転を止めるって事ですよね。職人たちのワークシェア的共同体が、新しい展開になってきてるってのは面白いです。私は歴史研究者なので、養蚕と言うと九割九分、暗い過去のイメージへとつながっていく。山梨も、長野も岐阜も山形も、すべからくあらゆる養蚕地帯に世界恐慌の波が訪れて、シルクの価格が急落しました。欧米でシルクのストッキングが売れなくなり、日本の養蚕地帯が軒並みだめになったんですよね。その結果、炭焼きに転職したり公共事業に雇われたりしたけど、どうにもうまくいかなくなる人もいた。

そこで中国東北部に日本の傀儡国家として建設された満洲国に養蚕農家たちや、貧しくなった農家を送り込むっていう国策が登場するわけです。今の山縣さんのお話は、そういう大きな征服と世界市場の物語から、養蚕をめぐる労働を一旦切り離そうという物語のように私には聞こえました。それが今の超大型経済システム一辺倒の政策や国際競争に風穴を開けていくのであれば、私は面白い試みだと思います。

止めるのは発酵を待つってことでもありますから。例えば、文章も書きたては新鮮で面白く見える。だけど一晩置くと、文章がつまらなくなっていたらその部分が目立つようになってる。それと一緒で、人間のアイディアも寝かせることが大事なんです。しかし、立ち止まらせないのが資本主義社会の前提だと思っていて、でもそれにはもう疲れたという気がするんです。

画像: 対談はZoomにて実施
対談はZoomにて実施

「作る」を捨てる

藤原:

ファッションは他のものと同様に、服を「作る」と言うじゃないですか。でも服を「作る」という言葉をやめたらどうでしょう。私は服もやっぱり、植物世界の分解過程だと思っています。今日見事に明らかにされましたように、服っていうのは肥料になるんですよね。人間の胃袋で服は分解できないけど、消化器官に棲む細菌とか、あるいは土壌にいっぱい住んでる細菌や真菌であれば分解できますよね。

そう考えると衣服をデザインするお仕事っていうのも、「作る」んじゃなくって解いている、分解しているというか。「作る」をあえて言い換えるなら、むしろ「結んでいる」と言えるんじゃないかと思うんです。(服は)糸で繋げているんだけど、あれは作っているんじゃなくて結んでいる。そういう風に捉えると、大量生産・大量廃棄のファッションの世界も変わってくんじゃないかという風に思ったんです。

山縣:

ファッション業界の問題は僕も学生時代から今に至るまで、つねに葛藤しながら活動してきました。2005年に学生時代の最後に発表したのが、「裸の王様」の続きの物語というコレクションでした。そこでは、裸の王様の着ていた見えない服が意外にも流行ってしまうストーリーを作って、見えない服を着せたぬいぐるみを制作して発表したんです。なぜそのようなことをしたかというと、2000年に入ったくらいからファストファッションが台頭してきて、まさに大量生産・大量消費みたいな時代に突入し、デザイナーの仕事は常に新しい衣服を発表して生産していくという慣例に疑問を持っていました。

コロナ禍を経て、僕がやっていきたいと思ったのは、長いスパンでの実験や研究を今まで以上に行いながらじっくりとファッションと衣服に向き合うことでした。現在、私たちの社会は過剰な「生産(生成)」に比重が置かれていますが、循環に必須のもう片方の重要な工程である「分解」は等閑視されており、分解者が圧倒的に足りないことが問題です。

藤原:

それこそ、前近代においては服は最後には肥料になっていた。うちの祖父母もわら草履を履いていましたけど、わら草履も最後肥料になる。いらなくなったもんぺも最後おしめにして捨てるっていうことを考えれば、そんなに急いで作らなくてもいいですよね。土に住んでいる生き物だって、分解能力の限界があるんですよ。私たちに消費欲の限界があるように。

今日教えていただいた試みって、まさに土に生きてる生物たちに分解力の幅を聞いてみようよってことだと思うんです。そうすると、自ずと作られてくるものって量が決まってきますし、言われてみれば今までは作りすぎてたよなという感じがします。もう1回、それぞれのバイオリズムに合ったやり方を目指す。そのために「作る」っていう言葉を一旦捨ててみたあとの世界を、私はやっぱり考えたいですね。

壊しやすい手触りのあるシステムへ

山縣:

すごく重要なキーワードをいただきました。コロナ禍の中で、世界最大の生地の見本市プルミエールビジョンの立ち上げメンバーのリー・エデルコートが造語で「unnovation」という言葉を出しています。作らない事も含めたイノベーションという意味で、イノベーションに否定の接頭辞”un-”をつけて「アノベーション」です。でもそれこそが現在必要なイノベーションなんじゃないかとおっしゃってました。

藤原:

私たち人文系の研究者でさえ、政府からイノベーションに貢献しなきゃいけないって言われてるんですけど、私は仲間たちとそれでは新しいものは生まれないと反発しようと思っていて。先ほどの養蚕のお話のようにもっと小さな、しかし信頼に基づいた物語をたくさん作って対抗しておかないと、すぐに大きなイベントや企業に絡め取られる気がするんですよね。そんな中で、着るものをもう1回循環しようという試みは、新しい経済様式を垣間見させてくれるんです。

また、「手」という言葉はキーワードになると思います。山縣さんが注目している「手」はおそらくバラバラであり、お互いに結びつく予定もないんだけど、ただどれもが仕事をする手として生命と交流してるわけですよね。そういう意味で相互浸透的なモデルというのを、小さな物語の中に囲って作っていかないと。全部上から作りなさいということに従っていくと、大きな物語に回収されてしまうと思うんです。

私も「手」や手触り、テクスチャーにはこだわりたいと思っています。でこぼこがないとやっぱり摩擦が生まれないんです。今流行しているのは「スマート社会」で、全部の情報と労働力がジャストインタイムで調達できることを求められていますが、抵抗とか障害がないと社会なんて全然面白くない。あらゆる生産力の先進国は、できるだけ無駄を無くしていくっていう労働管理システムになりましたが、もうその時代もコロナでほぼ終わってきてる気がしています。むしろ分解先進国となって、ノイズを力にするとか、過程の中で寄り道をする、その内側から時空を歪めていくようにしてかないと、ポキンと折れちゃいますよね。

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山縣:

(手の話から派生して)縫い糸の話で言うと、西洋が生み出した上糸と下糸を分けて絡みとってミシンで布と布を接着する手法と対照的に、日本の和裁というのは1本の糸で縫っていくんですが、それって分解されるためにあるんですよね。1枚の布が何枚か組み合わさって、着物になる。1枚ずつだと、風呂敷や手ぬぐい、ふんどしや雑巾になる。日本には物の機能を限定させることなく、変幻自在性みたいなものがあった。これは地震や津波、台風、山崩れ、大雪など環境の変化が激しい場所性に関係あると思います。

でも洋服が流入したことによって、その性質が空洞化しています。でも、そんな日本的性質が現代に合わさるようになればこれからのものづくりのヒントになるかもしれないなと思っています。例えば、衣服が衣服であると同時に変幻自在に業界を飛び越え飲食の業界へと繋がったり、療法の世界へと繋がったりなどです。

藤原:

重要なご指摘だと思います。つまり、日本やアジアの服は1本の糸だから分解しやすいけど、西洋はむしろ接着思想だったわけですよね。日本語には服を解くっていう表現があります。そういう意味で、壊すことも修理もしやすいシステムを作っていかないといけなくて、今まで私たちは崩すのが大変なのばっかり作ってきたと思うんです。工場だってものすごく大きくしてしまう設計で、崩すってことがそもそも想定されていない。だから糸は2本じゃなくて1本っていうのがいいですね。

和服って基本反物ですからね。直角に切るだけなので端切れも出にくいし、手縫いだから解きやすい。ある意味、機能型ですね。日本は機能的な服をずっと伝統として持ってたのに、それでは「遅い」と「速さ」を重視した工場に代わり、その伝統が失われたという見立てですね。でもその逆へ向かっていく、分解するところから服を作る過程を全部再構築していく戦略はありかもしれません。食べ物についてももそう考えたいですね。ミミズとかバクテリアが食べられない量が捨てられてるのはおかしいというところから、逆の目線から構築しなおしていくことが必要なのかもしれないと思いました。

#Bio Fashion#Sustainability
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