メディア研究者である立命館大学産業社会学部准教授・飯田豊氏とお送りする特集企画「都市とメディアの過去/現在/未来」。今回は、ライターの速水健朗氏をお迎えし、対談を行いました。
共に都市やメディアをめぐる、多様な文筆を手掛けてきた速水氏と飯田氏。そんな両氏が交わした、東京オリンピックが都市文化にもたらした影響、コロナ禍の都市風景などをめぐる、多岐にわたる対話をお届けします。
PROFILE|プロフィール
速水健朗
1973年石川県生まれ。ライター。主な分野は、都市論、ショッピングモール研究など。著作に『1995年』(ちくま新書)、『東京β』(筑摩書房)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)、『フード左翼とフード右翼』『東京どこに住む?』(ともに朝日新書)などがある。
都市における広場
オリンピックにおけるパブリック・ビューイングの構想
速水東京オリンピックについては開催そのものや観客の有無などについて難しい決断があった一方、パブリック・ビューイングの実行に関しては、ほぼ議論もないままあっさりと中止だけが告げられていたのに驚きました。公園や広場などを用いて、都市全体でオリンピックを楽しむような取り組み、または技術を駆使したスポーツ中継というのは、東京五輪の中核部分だと思っていたので、観客の有無以上に重要だったように思います。新たな人の集まり方の発明みたいなことがあってもよかったのではと。
一方、街に人が集まることの是非を問う議論は、コロナ禍になる以前にピークを迎えていました。たとえば、ハロウィンの渋谷駅前交差点に人が殺到する問題などがそうです。渋谷のハロウィンに対して、僕はネガティブなものとは捉えていません。イベントとして過剰に盛り上がってしまって批判的に見られてしまったけれど、あれは「都心に集まる広場のニーズ」の高まりであり、本来であれば、新たな広場の形の模索に繋がっていくものだったと思います。その件で、渋谷区長にも取材をしています。ニューヨークのタイムズスクエアのように車の乗り入れを止めるまではいかないものの、渋谷区では、「歩行者中心の道路空間の実現に向けた社会実験」を行ったりもしています。
コロナ禍でネガティブな意味で注目された「路上飲み」や「公園飲み」も、実は、コロナ禍以前からの現象で、治安維持の問題を抜きにすれば、新しい都市のコミュニケーションとしておもしろい面も多い現象だったように思います。路上飲み、公園飲みと従来の公園、そしてショッピングモールの中間形態のような形で、MIYASHITA PARKが2020年にオープンして、主に若い層に利用されています。パブリックと商空間とストリートが地続きになった都市の空間として興味深い施設です。
僕は、パブリック・ビューイング、路上飲み、MIYASHITA PARKは、飯田さんが研究されてきた都市とイベント性という観点で重要な事象だと思っており、今日はこの辺りについて話してみたいなと思っています。まずパブリック・ビューイングの動向について、どう見ていたのかお聞きしていきたいです。
飯田ニューアーバニズムやコンパクトシティといった概念が広がり、速水さんも書かれているように、少子高齢化に対応して中心市街地に人を呼び込む試みが進むなかで、公園のあり方も大きく変わっていますよね。
渋谷区長に取材されたというのが、2019年に書かれた「広場が都市を変える? イベントで賑わう街・ 渋谷で始まる新たな試み」(BLOGOS)という記事ですね。「広場」に注目されているのが印象的でした。2017年に刊行した『現代メディア・イベント論』(勁草書房)のなかで、共編者の立石祥子さんが、ドイツと比較をしながらパブリック・ビューイングの考察をしましたが、実際にドイツに足を運んでみて、広場と公園の違いについて考えさせられました。ドイツではブランデンブルク門前の大通りが非常に有名ですが、入場制限は設けられるものの、普段は境界がなく誰でも入ってこれる開かれた空間でパブリック・ビューイングが行われています。日本の場合、こうした広場がありません。スタジアムや映画館のようにお金を払って入る場所で開催されることが多く、根本的に性質が異なっていると思っていました。ですが、2017年頃から東京オリンピックに向けて、ヨーロッパの形式に近いパブリック・ビューイングの構想が浮上してきて、公園を活用するのは面白い動向だと注目していました。『現代メディア・イベント論』も、もちろん東京オリンピックを見据えて出版したもので、公共空間をどのように活用できるのか、人々の参加をどのようにデザインできるのかといった点を主題としていました。