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日本の近代化を支えた「富岡製糸場」と、操業を続ける日本最大の製糸工場「碓氷製糸」のいま

日本においては弥生時代から始まったとされる養蚕。時代は下り、養蚕とそこで作られた繭から生糸を生産する製糸の技術は江戸時代の中期頃から発展し、国内における生糸の生産量は一気に増加することとなった。
そして、1859(安政6)年の開港後から日本最大の輸出品になると、重要産業として位置付けられ、1872(明治5)年には群馬県富岡市にフランスの最新式の製糸器械を備えた富岡製糸場が設立され、日本の近代化を支えた。
そんな富岡製糸場は、日本の製糸業の衰退とともに1987(昭和62)年に操業を停止。1951(昭和26)年には日本各地に288ヶ所も存在した器械製糸工場も、今では群馬県の碓氷製糸株式会社と山形県の松岡株式会社の2ヶ所を残すのみとなっている。
そこで、特集「養蚕と製糸」の第1回は、日本の近代化に貢献し、現在は世界遺産として観光名所ともなっている富岡製糸場と、今なお国内最大の器械製糸工場として操業している碓氷製糸株式会社を訪れ、その歴史をデータとともに振り返りながら、現在の姿と取り組みを伝えていく。

富岡製糸場のいま

群馬県富岡市の上州富岡駅から徒歩で約15分の場所に、日本で最初の官営模範器械製糸工場であり、2014年にユネスコの世界文化遺産に登録された富岡製糸場がある。
世界遺産となっているのは「富岡製糸場と絹産業遺産群」であり、養蚕法「清温育」の研究開発と指導が行われていた「高山社跡」(藤岡市)、近代養蚕法「清涼育」の開発と、近代養蚕農家建築の原点となった建築物である「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)、そして蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設として造られた「荒船風穴」(下仁田町)がそれぞれ登録されている。
フランスからもたらされた製糸技術の革新はもちろん、日本における養蚕技術の革新も同様に評価され、近代の技術によって生糸を生産したその革新性と交流を示す集合体として、ユネスコに認められた。
富岡製糸場の施設内には、国宝となっている建物が3棟ある。正面入り口を進むと、そのひとつである「東置繭所」が見えてくる。長さは約104mで、操業時は2階に繭が貯蔵され、1階で事務作業などが行われていた、巨大な繭倉庫だ。
(左)東置繭所の正面(右)東置繭所のアーチの真ん中にあるキーストーンには、富岡製糸場がつくられた「明治五年」の文字が刻まれている。
(左)東置繭所の正面(右)東置繭所のアーチの真ん中にあるキーストーンには、富岡製糸場がつくられた「明治五年」の文字が刻まれている。
また、同様の大きさと構造を持つ「西置繭所」(国宝)が場内の奥に位置しており、こちらも2階に繭が貯蔵されていた施設だ。
西置繭所
西置繭所
日本は1909(明治42)年に生糸輸出量が中国を抜いて世界一となり、その後も第2次世界大戦前の昭和初期に至るまで、日本の主要な輸出品目であり続けた。1934(昭和9)年には国内での生糸生産量が約75万俵(1俵=60kg)を記録し、生産のピークを迎えた。[1]
その後は、第2次大戦時の輸出制限など、戦時下における影響や、アメリカでナイロンなどの化学繊維が開発されたことから生糸の生産量は低迷したが、繭の質が向上したことや、繰糸技術の発展により、1969(昭和44)年には最盛期の半分近くまで生産量が回復した。[2]
しかし、1975(昭和50)年をターニングポイントに生産量は減少の一途を辿ることになる。海外の安価な生糸や繭に押され、国際競争力は次第に失われていった。[3]日本国内においては和装の需要が低下したことも要因に挙げられるだろう。
その後の養蚕と製糸に関するデータを見てみよう。
1929(昭和4)年には221万戸も存在した養蚕農家数は2022(令和4)年の時点でわずか163戸、繭の生産量も1930(昭和5)年には40万トンだったが2022年には51トンと、ともに過去最低を記録している。生糸の生産量もまた、2022年度は168俵に留まっている。
その生糸にする作業が実際に行われていたのが、3つ目の国宝である「繰糸所」だ。正面入口から見て「東置繭所」の左手側に建っている、長さ約140mという世界最大規模の器械製糸工場で、日産自動車製の自動製糸機などが、現在でもほぼ変わらない姿で存在しており、見どころのひとつとなっている。
繰糸所(東側入口)
繰糸所(東側入口)
日産自動車製の自動製糸機
日産自動車製の自動製糸機
同上
同上
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