ファッション産業を支えてきた代表的な素材として、絹/シルクがある。日本においては、昔から着物などで親しみ深く、今なお世界中の人々を魅了する高級素材として高い人気を誇っている。
絹/シルクの原料である繭を生産する「養蚕」は、日本では弥生時代から始まったとされている。時代が下り、近代化の過程においては主要産業として位置付けられた。現在、世界遺産となった富岡製糸場が明治5年(1872)に設立されると、日本初の大規模な機械製糸工場として、繭から作る「生糸」の大量生産を実現した。
生糸は、明治42年(1909)に輸出量が世界一になるなど、昭和初期に至るまで長年に渡って輸出品の中心であり続けた。日本の養蚕業は、長い歴史を持つとともに近代化に貢献したことでも知られている。
養蚕業と人間の関わりについては、これまでに数多くの研究が行われてきたが、文化人類学者の沢辺満智子さんは、近代化を支えた養蚕業を技術からだけでなく、文化人類学的に、人々の信仰や身体性などの観点からもアプローチした調査を行っている。
近年、養蚕業は最新テクノロジーの導入や若手の新規参入などで再び注目を集めている。沢辺さんによると、それは近代日本における養蚕の発展を可能にした要因である、技術革新などの「科学技術」と養蚕に関わってきた人々の「信仰心」ともつながる現象だという。そこで沢辺さんに、養蚕業の歴史からファッションと素材の関係性、知られざる近代と現代のつながりについてお話を伺った。
編集者、ポリフォニープレス代表。1987年、茨城県つくば市生まれ。一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士課程修了、博士(社会学)。一橋大学、多摩美術大学非常勤講師。単著に『養蚕と蚕神ー近代産業に息づく民俗的想像力』(慶應義塾大学出版会 2020年)、共著に『VIVID銘仙――煌めきの着物たち』(青幻舎、2016年)、『越境するファッション・スタディーズ』(ナカニシヤ出版、2021年) など。
私は文化人類学を専門分野としてきました。文化人類学とは、自分とは一定の距離がある文化圏に入り込んで、人々の暮らしや営みを観察しながら、そこに生きる人々にどういう価値観が共有されているのかを考える学問です。あらゆる人間の営みがその研究対象となりますが、フィールドワークをベースに置いているのが特徴です。
私の場合は文化人類学の手法を用いながら、養蚕を行っていた女性たちの身体性や信仰心について調査しました。その上で、それらが国の主要産業でもあった養蚕業の近代化政策と、どのように相関したのかを研究しています。
かつて日本の絹産業は国家の花形産業だったこともあり、絹や養蚕、蚕糸の研究は、経済学や政治学、民俗学など様々な学問分野でたくさん行われてきました。しかし、学問分野を超えて領域横断的なアプローチによる研究はあまりされてきませんでした。
文化人類学の最大の特徴であるフィールドワークでは、自分の身体感覚や皮膚感覚など、あらゆる感覚を使って調査します。私の場合は、実際に現存している養蚕農家に住み込みをさせて頂き調査しました。
現場に広がる身体感覚などは、なかなか言語/テキストになりにくいことなんですね。そういった領域が、この産業をどのように支えていたのかを、歴史資料と接合させながら、もう一度捉え直すのが私の研究です。
もともと学生時代は、女性の働き方や仕事に強い関心を持っていました。そうしたなか、大学のプロジェクトで、繭から糸を取って織物を作る大石紬に関わる機会がありました。
そこで、戦中に配偶者を亡くし、女手一つで絹織物を作ることで生計を立てた女性にインタビューをする機会を得ました。その女性が特別だった訳ではなく、絹に携わる仕事によって経済的な自立を得ていた方が日本にたくさんいらっしゃったことを知ったんです。
そして、その調査のときに絹や糸をちゃんと見る機会がありました。服になった状態で見ることはありましたが、物質として繭という形で、しかも何千個と見た経験はありませんでした。
初めてそれを見たときに、すごく綺麗で非常に美しいと思ったんです。完全な自然の物でもないし、人工の物でもない。長年にわたる人間と自然のハイブリッドなコミュニケーションのなかで生まれた繭の、物質的な力を感じました。そこで、繭自体の歴史やそれに携わる人々の歴史を調べてみたいと思い、この研究を始めました。
近代以前の日本における養蚕業は、例外はありますが女性の副業的な立ち位置でした。それが近代になると、家計を支える主要産業として位置付けられ、国家の管理下に置かれるようになりました。それは生糸への海外からの圧倒的なニーズがあったからです。そのなかで、「どのように管理をすれば均一な生糸の大量生産が可能になるのか」を明治政府が考えたとき、一番大きな課題は蚕の品種が大量にあったことでした。
桜にもソメイヨシノや大島桜などたくさんの品種があるように、虫である蚕にもたくさんの品種があります。品種によって、作られる糸の質も異なってきます。多様な性質の糸は、たとえば日本の着物を作るときには風合いを出す際のメリットになります。しかし、日本が輸出していたのは生糸でした。加工品ではなく、原材料として考えたときに「均一でないこと」が大きな問題になりました。
明治後期から、生糸の主な輸出先はアメリカになって行くのですが、その主な用途は女性のストッキングでした。ストッキングは足を美しく、光沢を出して見せる必要があるので、原材料の品質がバラバラであってはいけません。そこでアメリカから日本へ、品質の統一が求められました。その際、蚕の品種を統一させるのがもっとも合理的でした。
それは、これ以前まで行われていた、農家が自分たちで蛾を交配して自家用の蚕種(卵)を作るという養蚕を禁じることでした。代わりに、国家の研究機関や、特例的に認められている企業などに蚕種生産の免許を与えていきました。つまり、蚕の種を作るノウハウや、付随するさまざまな知を、農村から国家や大企業が管理する形に再編していくプロセスだったのです。
蚕の種を生産・管理することは、技術的にとても難しいんですね。蚕から丁寧に育てて、繭から蛾にして、交尾をさせるのは、高度な技術を要する行程です。このような、地域に存続してきた知識や技術が、農村の自主的なものから国家や資本家によって管理されるものへと取って代わられるプロセスが、明治後期以降の養蚕だったと言えます。この意味で、明治以前と明治後期以降の養蚕は大きく異なっているんです。
かつて、日本が養蚕業で圧倒的な生産量を可能にしたのは、2つの要因があると考えています。1つは、科学知によって高品質な蚕種を作り出して、それを一元的に管理・普及した制度です。もう1つは、全国の養蚕地で人々が身体性を伴って蚕を崇めて大切にした信仰心です。
全く相反するように見える2つの価値が、コインの裏表のように共存していたからこそ、それぞれの立場から養蚕業が発展し、世界一の生産量が叶ったと思います。最近注目を集めている「スマート養蚕」などは、最先端の科学技術を応用して蚕の命を管理していくという日本にもともとあった文脈が、現代に継続していったと見ることができます。
著書でも書きましたが、メンデルの法則、いわゆる優生の法則のような、科学的な遺伝学の知識を、虫に導入したのは日本が初めてでした。最先端の科学技術を養蚕に常に投入してきた歴史の延長が、スマート養蚕のような形でつながっているように感じます。
一方で現在、養蚕そのものに関心を持ち、新しく養蚕や絹生産をやってみたいという方が結構いらっしゃいます。その方々は、蚕を育てる技術に内在している信仰心に近いような価値観を、より大切にしたいと考えているように私には見えます。
養蚕業の近代化を支えた大きな2つの要因が、各々に継承されて今日に接続している姿が、現在のスマート養蚕と小規模生産なのかもしれません。相反するように見える価値観が共存していたことによって、日本近代の養蚕が可能になったことを、ある意味で裏付けているようにも思えます。
そうですね、それぞれの文脈で続いているんだなと。アニミズムのような、虫に霊性を見出す価値観は、近代になって衰退した印象が一般的にはありますが、逆に養蚕はすごく存在していたんです。
なぜなら、養蚕は、蚕に対する信仰心がなければ成立しなかったような厳しい労働環境で行われていたからです。蚕はとても繊細な生き物です。今のように空調設備があったり、無菌状態が作り出せない環境のなか、人々は自らの身体感覚を頼りに、蚕の感覚や感情を感じ取ろうとし、それを基軸に飼育環境を整えました。その際、蚕神への信仰心を持つことで仕事に取り組むことができ、産業を支えた側面がありました。
蚕の信仰に関してどんな物語があるかというと、民話や神話において、蚕は亡くなった女性なんですね。色々な苦しみを受けて亡くなってしまった後に蚕になる、そういったお話が各地にたくさんあります。
そうした物語は、大変な仕事の中においても「目の前にいる虫は、もしかしたら亡くなった女性かもしれない。」というイマジネーションを作り上げました。そのことは、人間と虫という境界を超えて、飼育者の蚕への共感をより可能にしたとも考えられます。
そういうイマジネーションの世界をビジュアルに置き換えたのが蚕神の女神像です。蚕の神様は日本にたくさんいますが、多くが女性の姿をしています。神社の御神体も、女性の姿をしてるんですね。働いていた人たちが主に女性ですから、自分たちがシンパシーを感じやすかったのだと思います。女性の姿をした蚕神は、人間と蚕という全く異なる存在を媒介させる存在だったと言えるのではないでしょうか。
私がフィールドで養蚕を体験するなかで、養蚕という仕事は「ケア」の要素を多分に含むものだと感じたんですね。そのため、近代産業を支えた労働でありながら、機械化することが出来なかった。現在、新自由主義に起因する様々な課題が顕になってきたなかで、ケアという行為がさまざまな学問領域で見直されています。しかし、もともと日本は、養蚕などの「圧倒的なケアの仕事によって近代化するためのお金も得られた」とも考えられると思います。
養蚕の仕事を支えているケアという行為は、虫を労るとか虫を大切にすることで、コアにある考え方です。昔から「蚕は自分の子供のように育てなさい」という言い方があります。それは美辞麗句ではなくて、本当に虫の気持ちになる、虫の感覚を感じることでした。
そこでは人間じゃない非常に繊細な生き物に対して、この場所は暑いだろうとか寒いだろうとか、ジメジメしているだろうなど、どう感じているのかという想像力を必要とします。他者への共感や労りがベースにあることで成立しているのが、養蚕ではないかなと思います。むしろそれなしでは、成立しなかった産業です。
その点は近現代の養蚕業を考えた時に、あまり考えられてこなかった部分だと思います。純粋に国家の基幹産業になったとか、生産物としての絹の価値は評価されてきましたが、労働そのものに内在している感覚やケアにつながる部分があまり評価されてきませんでした。
そこに改めて関心を持って取り組まれているのが、もしかすると今の養蚕農家の方々ではないかとも思います。そういった観点の見直しは今後も高まっていくと思います。この見直しの後に、絹の価値が現代社会の倫理観や価値観に接続していくのではないかなと思っています。
私としては、養蚕における信仰や民俗に関するヨーロッパなどとの比較研究を考えています。国としては文化も全く異なる国ですが、絹というマテリアルを通して同じ様な世界観やコスモロジーが存在していたことを、もう少し論文にしていけたらと思います。
先ほどお話ししたような養蚕の民俗にみられる女性と蚕との繋がりは、世界各地、たとえば中国やイタリアの民俗でも確認できます。昔は養蚕という営みが女性の身体の皮膚感覚と密接にあったので、女性の出産の力や生殖能力と、蚕を育てる能力が近いものとしてみなされた側面があったのですが、これは日本だけでなく、中国やイタリアでもありました。
あとは、これまで養蚕に特化した研究をしていたので、製糸や織のプロセスまで視野に入れて考えていけたらなとも思っています。絹織物に携わる方にお話を聞いたことがあるんですが、やっぱり絹は他の繊維と比較しても特殊で扱いづらく、大変みたいです。湿度や環境などを整えないとコントロールできない。それはまさに蚕と同じだなと思っていて。虫から糸になった後も、ケアが求められる場所がたくさん存在しているんだと思うんですね。そういうことも含めて考えていきたいと思います。
養蚕はある意味、虫の命を大量に殺して成立している産業です。古代から虫の命をコントロールして、制約して、人間が求めたい絹を手に入れている。絹を身にまとうことは、虫の命をまとうことでもあります。
だからこそ、絹は古来から贅沢品でもあり、ハレの日のものでもあり、また権威を象徴するものでもあり得た。「命をまとっているからこそ充足感を得られている」という人間の欲望と密接に関連してきた側面もあったと思うんですね。
しかしながら、消費物としての絹、という見方に慣れきってしまった私たちは、単なる一つの素材として絹をみなし、そのことをしばしば忘れてしまいます。命を取った成果としての絹を、私たちがどう大事にできるかを考えるべきなんじゃないかと思うんです。このことは、先ほどお話しした、養蚕のケアの側面を評価することと繋がっていると思います。
繭から糸を取り、織物を作った昔の人にとっては、絹を作ることは命を取ることである、ということは目に見えていたでしょうし、だからこそ人々は絹をとても大事にしていたのだと思います。そういった形の一つとして着物があったんだと思います。
着物って端切れがほとんど出なくてゴミに出すものがないんです。「たくさん素材があるから服を作ろう」という発想ではなくて、「目の前にある素材を使って何がまとえるか」という「素材からの発想」だったと思うんですね。こうした視点を持って素材や衣服について考えてみること。生き物とファッションの関係性においては、その姿勢が大事なのではないかなと思います。
ヘッダー画像:池谷雅美