私たちは日々消費をくりかえしつつ生きている。ファッションも、消費の一分野として大きな存在感を持っている。しかし、そもそも消費とは何をさすのだろうかと言われると私たちは言葉に詰まってしまうかもしれない。あまりにも日常的であるが故に、それを改めて語ることには難しさが残る。
そこで今回は、消費社会論を専門とする貞包英之教授(立教大学)と林凌氏(日本学術振興会特別研究員(PD))をお招きし、消費社会におけるファッションの位置付けと展望についてお話を伺った。
立教大学社会学部教授、専攻は社会学・消費社会論・歴史社会学、東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。著書に『地方都市を考える 「消費社会」の先端から』(2015年、花伝社)、『消費は誘惑する:一八、一九世紀日本の消費の歴史社会学』(2015年、青土社)、『サブカルチャーを消費する:20世紀日本における漫画・アニメの歴史社会学』(2021年、玉川大学出版部)、『消費社会を問いなおす』(2023年、筑摩書房)など。
日本学術振興会特別研究員(PD)、専門は消費社会論、思想史、流通史。徳島県出身。東京大学大学院学際情報学府博士満期退学、博士(社会情報学)。近年の業績として、『〈消費者〉の誕生――近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』(単著、以文社、2023年5月刊行予定)、『労働と消費の文化社会学――やりがい搾取以降の「批判」を考える』(分担執筆、ナカニシヤ出版、2023年1月刊行)などがある。
私は消費の歴史と現代の具体的な事例について社会学的に考えてきました。たしかに消費は社会学ではよく使われるキーワードの1つです。たとえば、文化現象を研究する際に頻繁に言及され、消費されるコンテンツとそれを消費する人々の階層との結びつきなどがさかんに指摘されています。
このような分析はそれ自体として価値があるのでしょうが、消費を固有の問題として扱っているようにはみえません。たとえばある商品にかんして、どのようにお金を手に入れて、何のために買っているのかを主題的に分析する研究は社会学では少ないように感じます。そこで私は、消費がいかなる人にいかなる条件で可能になり、それが どのように社会を動かしてきたのかについて歴史的に研究してきました。最近では、漫画やアニメなどのコンテンツの消費を例とした本を書いています。
私は「消費者」という言葉を使って人々が何をしてきたのか、「消費者」「消費」という概念がどのように形成されてきたのかを、近代日本を対象に研究してきました。
貞包先生のお話を聞いて、私も社会学においては消費という問題がきちんと考えられてこなかったと思っています。消費という言葉は何にでも使えてしまう。もしくは、消費者という言葉はどういう人にも当てはまってしまうんですね。ある種の残与カテゴリーとして、困ったときに使うようなカテゴリーとして機能しているように感じます。
一方で、消費者や消費という言葉自体が近代社会の産物で、消費者運動にも代表されるように、非常に重要なカテゴリーとして機能してきた面は、社会学においてあまり焦点化されてこなかったように思います。そこで私は「消費者主権」と呼ばれるような、消費者の力が最終的に経済や、社会を動かす上で最も重大な力であるという考え方がいかに生じたのか。そうした歴史を研究しています。
正直に言えば、個人としてはどんな服を着るかにあまり興味を持ってきませんでした。つまりは外見で目立ちたくなかったのですが、そういう人は、たとえば中年男性には多いのではないかと思います。それにも社会学的な根拠はあります。男性の中高年は、ある意味では社会的にパワーがあると認識されているので、ファッションにおいてまで存在感を示す必要はないからです。
基本的に年齢が上がるにつれて、(裁量消費と呼ばれるような)個人が自由に使えるお金は増えていきます。住居もあるし、子供も家を離れていくからお金がかからない。なのでファッションにますますお金が使われても不思議ではないですが、実際のところはそうはなりません。逆にデータを分析すると、ファッションに関心がある人は数としては圧倒的に女性が多く、かつ若年層であるという結果が出ます。
それを踏まえ、消費としてのファッションをどう捉えるか、つまりファッションにどのような魅力があるのか考えていくことが重要になります。私自身の研究では漫画やアニメを取り上げたのですが、それは消費社会のキワにいる子どもという存在を捉えられると考えたからです。子どもは、自分で自由に使えるお金を持っておらず、親の言うことを聞かなければならないという意味で、消費社会においていわば二級市民になっているのです。
ファッションにおいては、こうした子どもたちの次の世代が重要になります。アルバイトなどで働いてお金を稼ぎ、消費社会にはじめて参加しながらも給料は低く、経済的、社会的な力を持っていない層にとって、ファッションは大きな意味を持つということです。大学生とか社会人になりたての若者、とくに女性ですね。このような人々の多くがファッションに関心を持っていて、その点について彼女たちがなぜ、なにをどのように消費しているのかに関心があります。
私は今思うとファッションという点においてはとても恵まれた環境にいました。というのも、母親がオーダーメイドの仕立屋をやっていて、ファストファッションとは一種対極にあるハイファッションの服を作っていたんですね。ところがそんなところにいたのに、あるいはいたせいなのかは分かりませんが、なぜかファッションというものにほとんど興味がないまま今に至ります。正直、今回お呼び頂いて、まともな話ができるだろうかとビクビクしています笑
なので、逆に若年層において「ファッション」に対する関心はどこからくるものだろうかと考えます。大学で学生と話をすると、ファッションでいかに自己を彩るのかという点は、多くの人にとって関心があるように思います。
また近年、SDGsやエシカルという言葉が頻繫に取り上げられるようになっていることは論を俟たないですが、学生がファッションに対して問題関心を持つ際に、こうした言葉がしばしば引用されるのも印象的です。つまり、社会改良の方策を語るための手段として、しばしばファストファッションが一種の悪玉として持ち出される。ファストファッションは、スウェットショップ(劣悪な労働環境のブランドや工場を指す言葉)といわれるところで生産されていたり、トレーサビリティ上問題を抱えていたりするからですね。
一方で、若年層の購買力は一般に乏しい。なので、ファッションで自己を彩ろうとすると、ファストファッションに頼るしかない。このジレンマが、今の学生の問題関心としてあるように思います。こうした問題に対して、社会学がいかに答えられるのかは考えたいところです。
比較的自由に使えるお金のある人が、車や旅行などにしばしばお金をかけることは理解しやすいと思います。一方、車や旅行に比べると、ファッションの消費にかかる金額はかならずしも多くはなく、高価格帯であってもせいぜい10万円単位の消費に留まるのではないかと思います。その意味で、ファッションは消費されるもの全体においては特段高くないジャンルだと言えるでしょう。
だからこそ消費社会を充分に享受できるお金を持っているわけではない若者たちも、ファッションなら楽しめるわけです。とくにファストファッションやプチプラコスメなどの場合、こうした代替的な消費としての魅力が大きいのではないかと思います。
林先生もおっしゃる通り、金がない若者こそがファッションを意欲的に消費としているというこうした社会的構造は容易には動かしがたいものとしてあるわけですが、それを踏まえれば、SDGsについての話が、基本的には説教として「持っている」人が「そんなに買っちゃいけないよ」という構図にならざるを得ないことが問題になります。
つまり「もっと高いものを買え、いいものを買え」という主張に集約されてしまう。より高いお金をかけていいものを買っている(と自負している)高所得者が若者に対して「君たちはまだものを知らないね」「丁寧な暮らしをしよう」と上からものを言うという構図です。
それは無意識に、「持つ者」と「持たざる者」の権力関係を反復してしまうことになる。
具体的にファッションの業界でこうした権力関係がどのように意識されているのかは分かりません。たとえば環境や貧富の問題を解決するために、生産の現場を規制しろとか、労働問題にちゃんと取り組めといった話はその通りだと思いますが、それはファッションだけにとどまらない当然の話です。労働問題、環境問題は他のさまざまな業界でも大きな問題であるにもかかわらず、なぜファッションと社会の関係について語るときに、そのことばかりが話題に上がるのかは不思議です。大抵は「ファッションはそういう問題が多いから」と説明されますが、それだけの話なのでしょうか。
ファッションがある種の剰余として捉えられているということかな、と思います。他にも、人間が生きていく上で考えていかなきゃいけない消費に関する問題はたくさんあると思うんです(食事とか住宅とか)。そこでファッションがもっぱら槍玉に挙げられるのは、自分が関わっている消費の中でも特に剰余な部分として位置付けられているからです。
つまり、倫理的な考えを突き詰めていっても自分の立場が掘り崩される危険が少ない。そうした性質がファッションにあるのかなと。一方で同時に重要だなと思うのは、20世紀後半のファストファッションの普及が世界を変えたこと自体をどう評価するのかということです。
ここ数十年における非常に大きな広がりとして、安く、ある程度おしゃれな服が買えるようになったというのがあると。そういうなかで先ほどおっしゃったように、比較的購買力が低い若年層が非常に恩恵を受けることができたわけですね。一方で世界を変えたにも関わらず、ある種都合よく批判される対象となっている。そのようなポジションにファッションはあると思います。
だから、「単純にSDGsはいい」という話だけではやはり話は終わらない。私たちがファッションに関する問題について考えをめぐらせても、結局ファストファッションが選ばれてしまう、ある種の魔力をどう考えていくのかが重要です。
服装に関してSDGsに関心を持つ人は、基本的にはファッションが好きな若者だと思うんですよね。モードが好きで、ファストファッションに対抗しているみたいな人。そしてだからこそ結局は活発に消費している。これは誰もが気づいている話だと思うのですが、それを踏まえてエシカルな消費とかSDGsとかが本当に業界で真剣に考えられているのかは疑問です。
消費社会論の観点からすると「エシカル」も「SDGs」もあきらかにモードの1つです。その意味ではそうしたモードを追いかけるファッションへの関心がなくなれば環境的にはより良いはずなのに、それを無視してエシカルなファッションへの関心を業界が煽るのは、「儲かるから意図的にやっている」ということなのか、あるいは本当に何も考えていないのかどちらなのかはよく分かりません。
エシカルはモードであるという点には私も同じ印象を持ちます。私もファッションへの関心が薄いんですが、このお仕事をお引き受けする機会にエシカルなブランドをいくつか見て回ってみたんですね。
店は青山とかにあって、綺麗な服が展示されていて、おしゃれで空調の効いた快適な店内に商品が陳列されていて、インバウンドの方やアッパーミドルのような方が購入されている。つまりそういう人たちを惹きつけるモードとして機能しているように見えました。
大量消費の話で言うと、結局のところ日本においてエシカルな服にアクセスできるような人はかなりごく一部に限られてしまうわけですね。お金もそうですけど、田舎に住んでいる人はそもそもファストファッション以外購入することが困難である。そうなると、現実のファッションに興味のない人たちと、こういったファッションをどう結びつけられるのかは難しい点ですね。
なんとなく環境にやさしそうなこと言ってますが、結局「アウトプットが環境にやさしくないファッションに落ちている」という自己矛盾になっていますよね。実際にエシカルな服を手に取る人はどこまで自覚的なんだろう。
今回私が購入して みて気づいたのは、「エシカル=倫理的」というのは、免罪符としてはとても効力を持つということです。いい服欲しいなというときに、ある種の最後の後押しになるというか笑
ただしファッションに関心をもつことそれ自体は悪いことではないし、断罪されるようなものではないと思っています。その意味で環境問題以上に危惧を抱いているのは、これまでファッションの業界において、モードを作り出していたような若年の女性とその消費の場が小さくなっていることです。
そういう人たちが着飾って楽しむような領域が、経済環境の悪化とともに狭まっているように見えるのです。ファッションの消費は必ずしも悪いことばかりではなく、自己表現や自己実現として極めて大切な意味も含んでいます。だからこそ、そうした消費が充分におこなえない人たちがこの社会に存在すること、そしてそのことを具体的にはどうやって乗り越えているのかに私は関心があります。
そもそも若年層の女性が既製服を買いながらおしゃれをするというのは歴史的にはまだ日が浅い現象です。近代日本から大量生産の服はありましたが、それはあくまでユニフォームだったんですよね。会社で働いたり学校に行ったりするための制服ですね。それを超え女性がファッションを消費して楽しむ権利を充分に持っていたようにはみえません。着物の仕立て直しや洋裁などで、自分でカスタマイズをすることはあったようですが。
でも若年層(特に女性)の既製服は1950年代くらいから少しずつ出てきて、70〜80年代に多様化し、おしゃれなものになっていきます。そうして既製服の消費は、若年層がなりたい自分になれるように、外面をコントロールする手段になっていきました。その延長線上で、近年では、たとえば「盛り」とかプチプラコスメなど、お金をかけずにちょっとしたおしゃれをすることも可能になっています。そうした人たちこそ、アンケートをするとファッションに興味がありますと答えてくれる人の中心だと思います。
つまり、「使っても月に数万円」というファッションの領域こそ、女性がようやく手に入れた大切な自由の領域なのだと思います。
彼女たちは、働けない、または働いても給料が安いという意味で、元々消費社会に十分に参入することもできなかった集団ですが、晩婚化し、自分でも働きながら一定程度自由になるお金を稼げるようになってきた。そうして、他の消費の領域での不自由を代償する消費としてのファッションが活性化してきたわけです。
しかしいまではこうした自由が、その領域が経済的な沈滞とファッションを罪悪視する面と道徳的な主張の両面から削り取られているようにみえます。「いかに消費を減らすか」を主張する環境問題以上に、こうしたファッションの制限という問題こそ、現代社会にとっては大きいのではないかと思います。
ファッションという社会現象自体が、20世紀に若年層が多かったヨーロッパやアメリカで勢いをつけてきたものであり、日本にもそれが飛び火したのだと思われます。日本や他の国が高齢化してしまっている現在においても、中国や東南アジアはまだ若年層が多い。
SHEINの興隆はこうしたアジアにおける若年層向け市場の拡大を背景としているのだと思います。日本はそれに依存している。現在の韓流ブームなどもそういった一面があると思いますが、日本における少子化という動かしにくい人口構造の問題を、グローバルなマーケットの市場が補っているという構図がみられるのです。
消費社会におけるモードはいろいろなパターンを取りながら変化していくものなので、貧富の差を背景として大きく1つの方向性が出てくること自体はそれほど驚くことではないと思います。重要なことは「ファストファッションを選ぶ人は罪悪感を持つべきなのか」というものの背後には、貧富の構造が織り込まれているということでしょう。単純に高い服を買えばいいのかという話でもないし、SHEINで商品を買っておしゃれをすることが無条件で断罪されるべきなのかと言われるとそうでもない。
私たちがこれまで持ってきた消費者としての権利と環境との関係は単純に考えられるものではないでしょうね。
経済的な面以外にも、ファッションを減速しようとする力があります。最近、学生に何かを書かせると、私のゼミではルッキズムの話がよく出てきます。そういう話を突き詰めていくと、「ファッションで何かを表現するのはよくない」ということになる。
ルッキズムやそれを支えるジェンダーの問題は当然無視できない問題です。ただし私は消費の肯定的なところにより多く目を向けたいので、一概にファッションの自由度がどんどん小さくなっていることをよいこととは言えません。
単純にエシカルになればいいんだ、ルッキズムをなくして美を正せばいいんだというのは違うだろうと思います。両極端の片方の基準だけでものを言ってしまうのは、結局ただモードに取り込まれているだけですからね。
人口構造として若年層に対する商品供給の膨らみと多様性は圧迫されてしまうと思いますが、ファッションを自由に楽しむということがまた別の場所で、芽を出したらいいなと思います。たとえば高齢者の男性などでも楽しめるようなファッションとか。それ自体はとてもいいことだと思います。
そういう方のためのファッションの消費はこれまでかならずしも活発ではなかったと思うんですね。市場から見放されていた部分があった。しかし、あらたな技術の開発や企業の努力によって、(先ほどもお話した若年層の女性のように)マイノリティのための消費が開拓されて、多様性や自由がより拡大されていったのだと思われます。
ただしファッションには一方では個性を際立たせつつも、一方では集団へと同化させるという面もある。そういう意味では本当に個性を育てるカスタマイズが可能なのかということは難しいところもあると思います。
当然、そのような人々がカスタマイゼーションの結果ファッションを楽しむことができるのはいいことですが、消費社会論的に考えると、ファッションの質的な変化をもたらすものではなく、むしろ一貫した流れの延長線上にある現象だと思います。もともとファッションは、カスタマイゼーションが基本であった。ところがここ60年くらいの既製服の拡大がその構図を打ち壊した。ファストファッションの流行はその極地ですよね。カスタマイゼーションはその先にあるわけだけど、結局これは企業側が考える良い商品を安く普及させるというポストフォーディズム的な生産様式の拡大過程の流れに位置づくわけです。
その流れの中で、だんだんとその外部にいた人が取り込まれていくこと自体は消費社会の論理として何も不思議ではありません。
このようなファッションの話題でよくある前提は、「消費者が消費をなんとかすれば世界が変えられる」ということです。つまり、消費者がエシカルな商品を購入すれば、市場原理に即してファッション業界が良くなるという。しかし、そもそもファッション産業はそうした構図で発展してきたわけではなく、基本的には先述した企業側が考えるよい商品を安く提供するという方向で動いてきた。産業側がモードも含め、消費者の欲望を先取りし、それを安価に提供する形で発展してきたとするならば、消費者側に意思決定権はそもそもあるのか、という点が問題となるわけです。それを、消費者が頑張れば業界がよくなるというのは、産業側の責任転嫁であるだけでなく、これまでのファッション業界が生み出してきた消費の豊かさを手放すことでもあると思うんですね。そうなると、極論を言えばお金持ちはエシカルないい服を買って、貧乏な人の消費は抑圧されるということになるわけです。
こう考えると、結局現代のファッションをめぐる問題は、個人の消費選好の問題に帰すことはできない。企業の振る舞いや、それを制約する国家の問題(中古服や原材料の国家間取引等)を考えないといけないと思うんですね。
消費が大文字の政治や世界を動かすことはむずかしいということには同意します。消費者は容易には集団化できないからです。にもかかわらず消費者はひとかたまりの集団のようにみなされ、社会や世界を変えることが期待される。昨年、文化人類学者のダニエル・ミラーの『消費は何を変えるのか』を翻訳したのですが、ミラーはエシカルな消費にかんして主張されるように、現代社会を変える大きな期待を消費者に寄せることを批判しています。彼は、エシカルなことを主張するなら、教育に取り入れ、生産者を変えることなどで、より直接、社会を変えていくしかないというのです。
ただし消費は消費を変えるし、それを通 してわたしたちの主体としてのあり方を変えるというのがわたしの立場です。ファッションの消費が、人びとの外面をコントロールする自由、または恣意性をこれまで以上に多くの人びとに解放することで、わたしたちの日常や他人との付き合い方、ジェンダーや年齢意識、そして自分自身の欲望のあり方や「人間とはなにか」という概念を変えてきたことは確実です。
しかしファッションのこうした成果は、充分実証的にあきらかにされてきたようには思えません。ファッションはまだ充分具体的に分析されていない分野であり、実際に人々は何のために何を買い、どのように着ているかをあきらかにすることで、この社会とは何かについて考えるファッションの研究がよりさかんになればと思います。
実証分析をしようとするとコーディングなどが非常に難しいですよね。
社会学を学ぶ学生にとって、ファッションはとても関心が高い分野なのですがいざ研究しようとすると難しいんですよね。記号論や消費社会論の通俗的な理解を適用するだけで終わってしまう。どんな服装がなぜ着られているのかについてのより具体的な研究は、むしろ文化人類学などでさかんなので、研究の仕方によれば分野として可能性があるのかなとも思います。たとえば先に上げたダニエル・ミラーも、世界で最も「平凡」な衣服であるジーンズがいかに、誰によって着られているかを分析することで、ジーンズを買って着るという経験が、国々を横断しながらいかにわたしたちの生活を変えてきたのかをあきらかにしています。
ファッションはリテール産業の発達史の観点からも興味深く、RFID(radio frequency identification)タグなどが代表的ですが、商品のカテゴリー化のための独自の技術が用いられており、私はそういった技術にも関心があります。歴史的に見ると、商品をいかに大量生産しつつ消費者にとっても理解可能なカテゴリーにしていったのかという点においてファッションは特殊なんですね。
たとえば食料品のように、単価も安くて量が多いとバーコードでカテゴリー化が行われましたが、ファッションは単価が高くて量も少ないのでRFIDが独自の進化を遂げました。この違いは、消費者側の購買経験の差異にもつながってくる。そういった意味でこのような技術に注目すると、 ファッションの独自性が見えてくるのかなとも思います。