神戸大学大学院交際文化学研究科博士前期課程在籍。専門は社会学、カルチュラル・スタディーズ。現在はバスケットボールを中心に、都市論、スポーツ社会学などの立場からストリートカルチャーの研究をしている。
自分の服装に、ファッションに興味を持ったのはいつからだったか。私の場合は10年以上前、親に買ってもらった一足のスニーカーが原点だ。中学生になりバスケ部に入部した私は、バスケ用の運動靴、いわゆる「バッシュ」を買ってもらうため、最寄りの大型スポーツ用品店へ行き、その一足に出会った。赤と白と黒のハイカット、ナイキのシューズだったことを覚えている。ただその靴はバッシュではなく、カジュアルシューズとして販売されている「スニーカー」だった。
バスケに対して無知な当時の私には、最新モデルのメッシュ生地より、レザーの重厚感の方が何倍も魅力的に見えた。私としては、もちろん体育館でバスケをするためにそのシューズを選んだのだが、売り場にいた若いスタッフにはこう説明された。
「これは、もともとはバッシュなんですけど、今はスニーカーですね」
そのときの私は、この 説明の意味をいまいち掴みきれなかった。なぜバッシュだったものがスニーカーになるのか。なぜそれが今はバッシュではないのか。ともかく、それは店に置いてあるほかのどのバッシュよりカッコよかったので、母親を説得して買ってもらった。言うまでもなく、同級生には不思議がられ、先輩たちにはからかわれた。
それから10年以上たった今では、巷で人気のスニーカーの多くがもともとバッシュであったことを、私は知っている。ナイキの「エアフォース」も、コンバースの「オールスター」も、アディダスの「スーパースター」もそうだ。また、バッシュの見本市たるNBAでは、機能性抜群の最新モデルをよそに、ファッション性重視の足元選びをする選手が少なからず存在することも知っている[1]。大学院生になり、バスケを研究する立場になった現在、あのスニーカーを手に取ったときの感覚をもう一度すくいあげてみようと思う。
改めて調べてみると、私があのとき買ってもらったスニーカーは、1980年代にナイキが発売した「ターミネーター」というモデルだと分かった。私が持っていたのはその復刻版ということになる。この「ターミネーター」は最近また復刻版が発売され、バッシュとしてではなく、ファッションアイテムとして人気を博している。レザーのアッパーがクラシックな印象を与え、かかとに大きく刻まれた「NIKE」の文字が、レトロな雰囲気を醸し出している。
「クラシック」とか「レトロ」という表現は曖昧で相対的なものだが、「ターミネーター」を評して簡単にそう言い切ってしまえるほど、現在のバッシュは進化している。たとえばアッパーの素材は、かつてのレザーからメッシュ素材が主流になり、いまやニット素材へ移行しつつある。メーカー各社が提供するニット素材は、パーツを縫い合わせるのではなく靴下のように編み上げることでフィット感や柔軟性を向上させている。さらに、ナイキは2019年に先端テクノロジーの象徴として、自動シューレース調整システムを採用した「アダプトBB」というモデルを発表し、アディダスは靴紐のないバッシュ「N3XT L3V3L(ネクストレベル)」を繰り出した。「ターミネーター」の時代から遠く離れ、バッシュの魅力はテクノロジーによって支えられている。
それだけではない。バッシュの魅力を語るうえで欠かせないもうひとつの要素がアスリートの存在だ。いまやコートの内外で絶大な人気を誇る「エアジョーダン」シリーズは、マイケル・ジョーダンと彼の伝説を抜きにしてはありえない。ほかにもトップ選手の名を冠した専用モデル(シグネチャーシューズ)を制作することが、各社の販売戦略の王道となって久しい。選手のシルエットやイニシャルを象ったロゴが配されたバッシュに足を通せば、まるで自分がその選手になったかのような高揚感で満たされる。ジョーダンのように高く跳び、カリーのようにシュートを決め、魂にはコービーが乗り移る[2]。
一方で、専用モデルに必ず刻まれている独自のロゴは、企業が彼らの身体を抽象化してそこに閉じ込めた証でもある。専用モデルを与えられた選手のほとんどが黒人であることも偶然ではない。企業は黒人の身体能力や情熱といった固定化されたイメージを売り物に、それをバッシュという記号に込めて世界中にばらまいて利益を得ている[3]。イメージはシューズのデザインという美学的な魅力に浸透し、私たちを盲目にさせる。
けれどもバッシュという物質に込められた意味は、各社が消費者に向けて一方的に押し付ける単純な物語というわけでもない。バッシュはエンドラインを越えてコートの外へあふれ出し、ファッションの一部としてストリートの文化を担っているからだ[4]。そこではバッシュを履く人の数だけ意味が生まれ、更新され続けている。憧れの先輩が履いていたから、プレゼントだから、みんなが履いているから、誰も履いていないから、などなど。文化の中では企業が発信する固定的なメッセージに収まりきらない多様な意味が溢れている。
テクノロジーと意味、これがバッシュのカッコよさの両翼だといえそうだ。しかし、だとすれば、「ターミネーター」を手に取ったあの頃の私はまったく不合理な選択をしたことにはなるまいか。最新モデル(テクノロジー)を蹴ったわけだが、だからといってバッシュの意味を重視していたわけでもない。当時の私はマイケル・ジョーダンが誰なのかすら、知らなかったのだから。
けれども、実際に「ターミネーター」でバスケをした記憶を辿ると、私の選択はあながち不合理でもなかったように思う。というのも、「ターミネーター」はいいバッシュだった。グリップはよく効くし、極端なハイカットは足首に安心感をもたらしてくれた。そのうえレザーのアッパーにはメッシュ生地にはない耐久性があった。むしろ私が今まで履いてきたバッシュの中でもかなりいい部類に入る。レトロなバッシュにはそれなりの理(テクノロジー)があり、最新モデルにはないよさもあった。私たちは「最新」技術を披露するまばゆい広告に目がくらみがちだが、案外バッシュのテクノロジーというものは、単線的な進化論では語れないのかもしれない。
バッシュの専門家であるプロ選手たちも、そのことに気が付いているのではないかと思う。先述したように、近年、企業から提供される最新モデルを履かない選手が少なくない。特にNBAでは、機能的には劣るはずの過去モデルを履く選手や、バッシュ以外のスニーカーを履く選手が目立つ。最新モデルが選手にウケない例も多い。現実のプレーを置き去りにして進化し続けるテクノロジーに食傷気味なのかもしれない[5]。こうしたなかで、バッシュにおいて、テクノロジーよりも、意味が大きな力を持つ状況が生まれている。
すでに触れたように、いまやバッシュはスポーツを超えて、ストリートカルチャーの一部であり、ファッションの重要な要素にもなっている。さらにトップアスリートがストリートで流行りの過去モデルや限定モデル、バッシュ以外のスニーカーすら持ち込んでコートに立っている状況を鑑みれば、もはやこれはオンコートからオフコートへの一方的な流行のトリクルダウンではなく、逆流をともなう渦のような状況だと言える。それらはひとえに、バッシュに込められた意味が何より重要視されている時代を表している。テクノロジーは企業の極秘の研究室にしかないが、その靴を履く意味はそれぞれの足元にあるのだ。
こうしたなか、バッシュをキャンバスに社会的メッセージを発する選手が増え始めた。2020年に起きたジョージ・フロイド事件により加速したBLM(Black Lives Matter)運動では、多くの選手がメッセージ付きのバッシュを着用した。中には本格的なペイントをシューズに施す選手もいた。コートで躍動する選手たちの身体を無数のカメラがとらえているが、SNS全盛のグローバル資本主義が支配するこの時代に、足元に注がれる視線の拡散力は別格だった。彼/彼女らがバッシュに載せたメッセージは、カッコよさをともなって瞬く間に世界中へ拡散される。この回路を利用し、彼/彼女らはバスケからファッションという文化を経由して社会に接続しようとしていた。バッシュこそが、その媒介として機能する社会的文化的なアイテムだということを、いまや大勢が了解している。
もちろん綺麗ごとばかりではない、同じやり方で足元から中国政府を批判したトルコ出身の選手であるエネス・カンター・フリーダムは現在、事実上リーグから追放されている。中国市場を重視するNBAは、利益を生む社会正義にしか興味がない、というのが彼の主張だ。また、ナイキは契約選手であり専用モデルも展開していたカイリー・アーヴィングが、SNSで反ユダヤ主義的な内容を含む映画のリンクをシェアしたことを受け、アーヴィングとの契約を終了した[6]。アーヴィングと入れ替わる形でナイキから専用モデルの発売が決定しているジャ・モラントは、この記事の執筆時点で、銃の不法所持容疑で非難を浴びている。
モラントの専用モデルの発売を控えるナイキは彼の復帰をサポートする姿勢を見せているが、アーヴィングに対する対応との違いに違和感を抱く声も上がっている。バスケとファッションを横断し、社会へと広がるバッシュの可能性は、このように資本主義の回路に規定されていることも否めない。ナイキを去ったアーヴィングは、契約終了直後の試合で相変わらずナイキ製の専用モデルを着用したが、ナイキのロゴ部分はテープで覆われており、テープには「I AM FREE」と記されていた[7]。
ところで、先日NBAオールスターゲームがアメリカ・ユタ州で開催され、ナイキと袂を分かったアーヴィングが特別仕様のシューズで試合に臨んでいた。ナイキから最後に発売された専用モデルである「カイリー・インフィニティ」をベースに、「モカシン」仕様にカスタムした奇抜なデザインのシューズだった。正直とてもカッコいいと思った。ナイキのロゴをスエードのフリンジで覆い隠し、ビーズの装飾と合わせて、アーヴィングが心を寄せるネイティブ・アメリカンの文化をうまく取り入れたデザインになっていた。フリンジの下にあるはずのナイキのロゴは実は取り除かれており、代わりに「FREEDOM」と「POWER TO THE PEOPLE」の文字が刻まれている。機能的にも最新でありながら、ファッション性を共存させており、アーヴィングの跳躍とともに舞うフリンジがとてもダイナミックだった。
あまりに完璧に調和して見えたそのバッシュを見て、これこそが真の専用モデルだと思った。同時に、きっとこれを履いても自分はアーヴィングにはなれないのだと直感した。それを知りつつも購買意欲を刺激され、すぐに詳細を調べたが、このバッシュは特注品で一般販売はないとのことだった。それでよかったと思う。
冒頭の「ターミネーター」からずいぶん遠くへ来てしまったので、最後にもう一度、原点に立ち戻りたいと思う。初めてのバッシュを選んだあのとき以来、私はコートの内外を問わず、自分の足元に気を使うようになった。装うことは自分が何者なのかを確認するとともに、それを外界に提示することでもあるとすれば、バッシュを媒介に社会とつながることは、アスリートだけでなく、私がこれまでずっと行ってきたことでもある[8]。その営みを何年も続けて分かったことは、それがとても複雑な作業だということだ。
私が私なりの意味を込めたいバッシュには、私が足を通す前からすでに多様で複雑な意味で満ちている。だから状況に合わせてその意味を踏襲したり、組み替えたり、裏切ったりしなければならない。それが私にとってのファッションだ。あの日以来、バッシュの中に私の生きる社会がある。
[1]たとえば、2000年代におもにワシントン・ウィザーズで活躍したギルバート・アリーナスは、かつてD&Gのスニーカーで試合に出場した。また、NBAのスニーカーキングと名高いP・J・タッカーは、ストリートで人気のスニーカーを試合ごとに履き替え、メディアの注目を集めている。
[2] 私も高校時代、ラジョン・ロンドという司令塔の選手に憧れ、彼の専用モデルを履いてチームメイトにひたすら迷惑なパスを出し続けた。誤解のないよう断っておくが、ロンド自身は素晴らしいパサーだった。
[3] 山本敦久はナイキをはじめとするグローバル企業の活動が「黒人性」を生産、反復する現場となっていることを指摘している(山本 2020:153)。
[4] バッシュがストリートの文化の一部となる歴史については、ニコラス・スミスの著書を参照されたい(Smith 2021)。
[5] たとえば、ロサンゼルス・レイカーズ所属のレブロン・ジェームズは2021-2022シーズン当時、最新モデルの「レブロン19」をほぼ着用せず、下位モデルのシューズを多用した。また、先述の「アダプトBB」は、若手契約選手を広告塔に大々的なプロモーションを行ったが人気は振るわず、シリーズは二作目までしか発売されていない。
[6] アーヴィングの行為は大きな反響を呼び、当時のチームは彼に出場停止処分を下した。その後、アーヴィングは差別の意図があったわけではないことを主張しつつも、SNSを通じて謝罪を発表した。
[7] ここで取り上げた選手たちのように、スポーツを通じて社会の別の在り方を探る、そのためのネットワークの起点として存在する選手たちを山本は「ソーシャルなアスリート」と定義している(山本 2020:173-174)。
[8] 井上雅人はファッションをその人が何者であるかについてのコミュニケーションであると定義している(井上 2019:12-13)。
<参考資料>
井上雅人(2019)『ファッションの哲学』ミネルヴァ書房
スミス・ニコラス(2021)『スニーカーの文化史 いかにスニーカーはポップカルチャーのアイコンとなったか』中山宥訳、フィルムアート社
山本敦久(2020)『ポスト・スポーツの時代』岩波書店