PROFILE|プロフィール

久保田裕斗
京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程。専門は教育社会学、障害学。障害児と健常児が共に学ぶインクルーシブ教育について質的調査を行っている。好きな食べ物はうなぎ。
新型コロナウイルスによる感染者数や死者数は依然として多いにもかかわらず、世間は感染対策の緩和へと急速に向かっており、戸惑いを感じているひともいるのではないだろうか。けれども障害問題を研究する筆者は、その変化を望ましいと感じている。
いうまでもなく障害者は、感染症によって命を落とす危険性が高い、いわゆるハイリスク因子を抱えるひとが多い。だから、障害問題をテーマとする研究者が感染対策の緩和を肯定的に捉えていると聞くと、不思議に思うひとがいるかもしれない。じっさいこの3年間、研究者の多くは(障害を研究テーマにしているか否かに関わらず)「ゼロコロナ」政策や感染対策の強化を求めていた。しかし障害者運動の歴史をひもとくと、感染症に過剰に敏感にならず、いままでの生活を取り戻すべきであることがわかる。そこでこのコラムでは、障害者運動の歴史から導かれる、あたりまえの生活を取り戻すことの大切さについて書きたい。
着飾ることのジレンマ
みなさんは「自分がおしゃれをすることでだれかを傷つけている」という認識はあるだろうか。「髪をのばし、きれいな洋服を着、その行為がいかに障害を持った 女性を差別しているかということ。施設の中では自分の思う通りの髪の形もできない。自分の思う通りの服装をすることもできない。そういう障害者の女性がいる。パジャマ一つで365日暮らしている、そういう人達がいるということをまず福祉労働者である皆さんに知っておいて欲しいわけです。」
(横塚晃一著『母よ!殺すな』p.236より、映画『さようならCP』上演討論会における小山正義の発言)
こうした障害当事者の言葉を聞いて、どのように感じるだろうか。いまから50年ほど前、障害者運動を主導した当事者の一部は、デモをおこなう自分たちの目の前をお洒落に着飾った健常者が通り過ぎていくことすら、ある種の差別だと主張していた。かれらの言葉を聞いて、たしかに差別かもしれない、と感じるひともいるかもしれない。しかし読者の多くは、そんなことまで差別と言われなくてはならないのか、と感じたはずだ。そして、たしかに差別かもしれない、と感じたひとも含めて、ぼくたちは明日から「あたりまえに」着飾ることを放棄したりはしないだろう。ここには、「着飾ることのジレンマ」と呼ぶことができそうな問題が横たわっている。
この記事は会員限定です。
登録すると続きをお読みいただけます。 会員登録でできること
- 会員限定記事の閲覧、
音声読み上げ機能が利用可能 - お気に入り保存、
閲覧履歴表示が無制限 - 会員限定のイベント参加
- メールマガジン配信で
最新情報をGET