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2023.02.04

【リレーコラム】着飾ることの差別性とコロナ社会(久保田裕斗)

PROFILE|プロフィール
久保田裕斗
久保田裕斗

京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程。専門は教育社会学、障害学。障害児と健常児が共に学ぶインクルーシブ教育について質的調査を行っている。好きな食べ物はうなぎ。

新型コロナウイルスによる感染者数や死者数は依然として多いにもかかわらず、世間は感染対策の緩和へと急速に向かっており、戸惑いを感じているひともいるのではないだろうか。けれども障害問題を研究する筆者は、その変化を望ましいと感じている。

いうまでもなく障害者は、感染症によって命を落とす危険性が高い、いわゆるハイリスク因子を抱えるひとが多い。だから、障害問題をテーマとする研究者が感染対策の緩和を肯定的に捉えていると聞くと、不思議に思うひとがいるかもしれない。じっさいこの3年間、研究者の多くは(障害を研究テーマにしているか否かに関わらず)「ゼロコロナ」政策や感染対策の強化を求めていた。しかし障害者運動の歴史をひもとくと、感染症に過剰に敏感にならず、いままでの生活を取り戻すべきであることがわかる。そこでこのコラムでは、障害者運動の歴史から導かれる、あたりまえの生活を取り戻すことの大切さについて書きたい。

着飾ることのジレンマ

みなさんは「自分がおしゃれをすることでだれかを傷つけている」という認識はあるだろうか。

「髪をのばし、きれいな洋服を着、その行為がいかに障害を持った女性を差別しているかということ。施設の中では自分の思う通りの髪の形もできない。自分の思う通りの服装をすることもできない。そういう障害者の女性がいる。パジャマ一つで365日暮らしている、そういう人達がいるということをまず福祉労働者である皆さんに知っておいて欲しいわけです。」
(横塚晃一著『母よ!殺すな』p.236より、映画『さようならCP』上演討論会における小山正義の発言)

こうした障害当事者の言葉を聞いて、どのように感じるだろうか。いまから50年ほど前、障害者運動を主導した当事者の一部は、デモをおこなう自分たちの目の前をお洒落に着飾った健常者が通り過ぎていくことすら、ある種の差別だと主張していた。かれらの言葉を聞いて、たしかに差別かもしれない、と感じるひともいるかもしれない。しかし読者の多くは、そんなことまで差別と言われなくてはならないのか、と感じたはずだ。そして、たしかに差別かもしれない、と感じたひとも含めて、ぼくたちは明日から「あたりまえに」着飾ることを放棄したりはしないだろう。ここには、「着飾ることのジレンマ」と呼ぶことができそうな問題が横たわっている。

あたりまえの生活を求めた障害者運動

お洒落に着飾ることの差別性について触れたのは、なにもお洒落をするのはやめようと言いたかったからではない。お洒落に着飾ることがいくら差別だと言われようとも、そしてもしある一定数の人々がその差別性に気がついたとしても、ぼくたちはお洒落を楽しむひとが大勢いるこの社会自体をキャンセルしようとは考えないだろう。なぜだろうか。

それは、あたりまえの日常がそれだけ尊いものだからではないだろうか。障害者運動の重要なキーワードのひとつに「ノーマライゼーション」という言葉がある。この言葉はよく誤解されるように「アブノーマル(異常)状態の障害者をノーマル(正常)に近づける」ことを意味する概念ではなく、「障害者もあたりまえの(ノーマルな)生活ができるように社会環境を整えていく」ことを意味している。障害者運動においては、施設のなかで不自由な暮らしを強いられている障害者の現状を批判的に捉え、だれもが地域であたりまえの生活ができるよう社会の制度やシステムを変えていくことが目指されてきた。そうした大きな目標を表現するための言葉として、「ノーマライゼーション」ということが盛んに言われていたのである。

けれどもここで問題が発生する。さきほど着飾ることがはらむ差別性について触れたように、あたりまえの(ノーマルな)生活を送ることは、マイノリティを見捨てることであり、すなわちある種の差別を認めることである。差別は、あたりまえの生活を送るぼくらのとても身近なところに存在していて、だからこそぼくたちの頭を悩ませるのだろう。

コロナ禍と障害者施設のような社会

そして、このあたりまえの生活と差別の関係が顕在化したのが今回のコロナ禍だった。

あたりまえの生活を営む、それだけのことで今日もどこかでだれかが死んでしまう。そのような残酷な現実に耐えられるひとは少ない。だから少し前までは、そうした現実の残酷さに気がついた大勢のひとたちがステイホームを声高に叫んだ。そして現在、ステイホームの大合唱に疲れたぼくたちは、あたりまえの生活を送ることが不可避にはらむ残酷さを、いっそのこと忘れてしまおうとしているのだと思う。

筆者は冒頭でも述べたとおり、感染症について過剰に反応することをやめてしまおうとしている現在の社会の状況を望ましいと感じている。より正確にいえば、あたりまえの生活を取り戻すために、コロナを忘れたふりをすべきだと考えている。その理由は、あたりまえの生活がそれだけ尊いものだからだ。ぼくたちは、あたりまえの生活がはらむ残酷さと尊さの両方を自覚しながら、その残酷さを忘れたふりをして、これまでどおりの日常を取り戻していくべきなのだ。

今回のコロナ禍で起きた現象を「総障害者化」と言い表したある障害学の研究者がいた。コロナ禍においては多くのひとが不便を味わったため、ある意味では国民全体が障害者になったということができるし、その経験は互いを思いやる社会づくりのきっかけになるのではないか、という主張である。筆者はそれを聞いたとき、いま起きていることは「総障害者化」というよりも、消灯や黙食、そして外出制限といった施策に象徴される社会全体の「総施設化」ではないだろうか、と感じた。コロナ禍における「ニューノーマル」は、かつての障害者運動が獲得しようとしていた「施設の外でのあたりまえの生活」という意味における「ノーマル」とは大きく異なっている。ノーマライゼーションの行き着いた先が、みなが施設的あるいは病院的な社会で暮らす「ニューノーマル」なのであれば、それは本末転倒だ。

ノーマライゼーションは、あたりまえの生活の尊さを前提としながら、そのあたりまえをできるだけ大勢のひとが享受できるように社会を変革していく運動だった。しかし、あたりまえに日常を送ること、たとえばあたりまえにお洒落を楽しむこと自体に差別性が潜んでいることをこのコラムでは指摘した。筆者が障害者運動の歴史を踏まえて出した答えは、それでもぼくたちはあたりまえの生活と日常を簡単に捨て去るべきではないということだ。コロナ禍を経たいま、あたりまえの日常を求めること(=ノーマライゼーション)の尊さと残酷さの両義性について、改めて考える必要があるのだと思う。

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