Fashion Tech News symbol
Fashion Tech News logo

【リレーコラム】ご馳走としての衣服と論文(加藤聡)

PROFILE|プロフィール
加藤聡

東京大学大学院情報学環特任研究員。専門はイングランドを中心とした初期近代の書物史。知的な営みとしてのノート作成や辞典・百科事典の編纂に関心がある。論文に「ジョン・ハリス『レクシコン・テクニクム・マグナム』(1720年)にみる百科事典の編纂と出版計画」(『科学史研究』、2019年)など。


好きなファッションに身を包むこと

とにかく服が好きみたいだ。食に関心がない代わりに、衣に向けられている。あるとき、ショップ店員さんと見間違えられるにはどうしたら良いかと考えたこともあった。そんな冗談が言えるくらいファッションに魅せられている。そんなことだから、クローゼットはちょっとしたファッション・ショーの舞台裏みたいになっている。
それにしても、いつから服が好きになったのだろうか。思い返してみれば、きっかけは高校生活にあると思う。私服の学校を選んだことで、服や髪型への関心は尽きることはなかった。同じクラスには服装にこだわる人も多くいて、彼らの影響を強く受けた3年間だった。当時、カリスマ美容師と呼ばれる人たちが雑誌の紙面を飾っていた。あの美容室に行きたいとか、同じブランドの服を身に付けたいとか、そんな話で盛り上がるから、勝手に知識だけは増えていった。
初めてデザイナーの服を購入したときの感動は忘れない。よくわからないが、なにかが違うと感じた。素材がどうとかシルエットがどうとか、そのときは興味がなかったし、そんなことを知りたいという欲求もなかった。ただただデザイナーの名前を冠したブランドの服を着ているというだけで高揚感に包まれた。友人にあの服を着ていると気づかれたいとは思わなかった。雑誌を見て憧れたデザイナーの服を身に纏っているという事実だけで満たされるものがあった。
それ以来、ファッションは自分の気持ちをコントロールするための手段となった。実は出不精な性格のため、仕事でも休日でも外出するのは一苦労である。ちょっとした旅行に行くとなれば、それこそ無駄に気合いを入れなくてはならない。そんなときは好きな服に身を包むことにしていた。すると、なんだか足取りが軽くなり、億劫な気持ちもどこかへ消えていく感覚があった。これがいつしか処世術となっていた。
だから、ぼくにとって、大量生産された画一的なデザインの服に興味はないのである。そうではなく、ある人が長年の経験から考案したデザインと、選び抜かれた素材によって制作した服に魅せられている。

「生み出されたもの」としてのファッションと論文

さっきコレクションと言ったが、手当たり次第に服を購入しているわけではない。自分のなかでルールを決めている。それは自分の仕事を1つ終えたら、服を買っていいというものである。つまり、論文を仕上げた対価として、服を手に入れるということだ。そんなことだから、論文と服は同じものではないだろうかと思ったことがあって、少しばかり調べたことがある。
仕事柄、調べものはどうしても英語辞典と向き合ってしまう。実は、このリレーコラムを執筆中も、『オックスフォード英語辞典』とロジェの『シソーラス』を開いている[1]。せっかくだから、いろいろと言葉を引いて思ったことを書き残しておこう。
さきほどから何気なく「ファッション」という言葉を使っているが、この言葉が指す内容は曖昧なものだと思う。多分、人によって想像するものが違う。辞典ではどう定義されているのだろうか。
「ファッション(fashion)」はラテン語の facere を語源にもち、元々は「(ものを)作る」とか「(何かを)する」という意味をもつ言葉らしい。そこから「作法」や「形式」といった使い方が出てくる。だから、今日ぼくたちがファッションという言葉を聞いて思い浮かべるような、ドレスや洋服、メイクやヘアスタイルといったものはその一部であり、全体としては「生み出されたもの」として捉えるべきなのだろう。
すると、論文も作法とは無縁ではないということに気づく。よく感想文と論文は違うという言い方がされるが、論文はなんでもかんでも自由に書いて良いわけではない。大学の授業に学術的な作法を学ぶ科目が設置されているように、形式は重要な要素である。
1 / 2 ページ
この記事をシェアする