2022.12.29

【リレーコラム】もの言わぬ肉体をかき分けることについて——タトゥー、ファッション、テキスト——(青山新)

PROFILE|プロフィール
青山新(あおやま・しん)
青山新(あおやま・しん)

1995年生まれ。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了(デザイン)。anon press〉編集長。SFや未来志向型のデザインを中心に、執筆/表現活動を行なっている。主な作品に「オルガンのこと」(樋口恭介編『異常論文』所収、早川書房)、「ココ・イン・ザ・ルーム」(日本科学未来館「セカイは微生物に満ちている」にて展示)など。 
https://scrapbox.io/shinaoyama/

本稿執筆時、陰謀論者アレックス・ジョーンズが運営する極右/陰謀論/フェイクニュースサイト「InfoWars」のライブ配信に出演したYeは、ナチス礼賛ととれる発言によって非難を受けていた。

遡って2013年、Yeこと当時のカニエ・ウェストは「なぜ服にこだわるのか」というテーマに関して、BBCラジオのインタビューでこう発言している。

「それは裸でいることが違法(illegal)だからだ」

いかにも人を食ったようだが、奇妙に忘れがたい。アドルフ・ロースの箴言「装飾は犯罪(crime(1))である」を想起するからか?裸でいることが違法で、身を飾り付けることが犯罪ならば、われわれのなんと罪深きことか。

ところでボディスーツ、特にセカンドスキンと呼ばれるようなアイテムがここ数年、トレンドの傍らを流れ続けている。もはやMarine Serreの三日月はインフルエンサーの肌に焼き付いて久しい。ここまでの議論をふまえると、着衣ながらに裸体を想起させるこれらの装いは、いわば違法と犯罪の重ね合わせであり、恐るべき背徳に他ならない。

肌、彩、罪...... さてこのあたりで、原初的な彩られた裸、すなわちタトゥー(2)の召喚が求められる。事実、近代の衣服に限っても、そのデザインにおけるタトゥーへの参照は歴史深い。

例えば、三宅一生は活動の最初期である1971年に「タトゥー」と題されたボディスーツを発表しているし、1989SSにMartin Margielaがトロンプルイユのテーマのもとに提示したシアートップスや、Jean Paul Gaultierの1994SSコレクション「Les Tatouages」も有名であろう。

その後、ドン・エド・ハーディーとクリスチャン・オードジェーによるEd Hardyや、COMME des GARCONS HOMME PLUSの2015AWコレクションにおけるJK5(ジョゼフ・アリ・アロイ)との協働といったタトゥーアーティストとファッションブランドの蜜月が重ねられ、現代日本のわれわれもGAKKINTAPPEIらの影にその歴史を見ることができる。

あるいは、これら系譜の合流点としてさしあたり、2021AWのsacai x Jean Paul Gaultierで発表されたDr.Wooのグラフィックによるセカンドスキンをプロットしてみてもいいかもしれない。

先に引いたロースはタトゥーについて「もし近代人が刺青をすれば、その者は犯罪者か退廃した人間だ」と述べ、その装飾性を非文明的なものの代表として挙げた。

crimeの語源は「分けること」を意味する印欧祖語*krei-であり、批評(critique)へと接続する。一方でillegal(legalの否定)の語源は「集める」を意味する*leg-であり、これは同時に「話すこと」の意を持つ。もの言わ(*leg-)ぬ(il-)肉体を針がかき分け(*krei-)その奥にくろしるしを吐き出す。

タトゥー、ファッション、テキスト。対象が肉体であれ、布であれ、言語であれ、われわれはそれを切り分け、断面について何かを言わずにはおれない。これが罪だというのなら、まさしく原罪と呼ぶにふさわしいだろう。


タトゥーは原則として消せないゆえに、ファッションにおけるトレンドとはいささか位相を別にする。とはいえ、時代ごとに前面化するスタイルが変化していることは疑いようがない。

例えば、SNSを通じた高解像度の画像の交換が、近距離での鑑賞を前提とした繊細な表現の流行に寄与したであろうことは、多く指摘されている。代表的な例を挙げれば、シングルニードルによるジオメトリックやドットの表現、ホワイトインク、UVインクといった日常ではまず気づかれないカラーの選択などがある。

その一方で、ブラックアウト——黒一色による広範囲の塗りつぶしを特徴とする表現——がここ数年注目を集めている。その結果、トライバルタトゥーはもちろん、腕や脚を一切の図案なく塗りつぶすことさえ、比較的ポピュラーな選択肢として人々の前に並び始めている。これらは明らかに全身規模の表現であり、SNSを通じた近距離での鑑賞を前提とするそれとは対照的である。

もちろん動画がSNSの主戦場となった現在において、身体の動きを伴ってこそ映えるブラックアウトが伝達しやすくなったこと、あるいはタトゥーの広がりとともに増加するもう一つの需要——カバーアップに対する応答としての側面を指摘することは、できよう。もしくは単に、血に濡れた墨色の肉体が蠢く様は十分にSNS向きの刺激である、と言ってしまってもいい。しかし、これほど両極端なスタイルがともに注目を集めていることは興味深い。

先に軽く触れたが、ブラックアウトにはカバーアップとの強い連続性がある。既存のタトゥーを覆い隠す漆黒のヴェール。墨色に染まった肌はやがて新たな「地」となって、ふたたび「図」の展開を許容する。

事実、ブラックアウトの上にホワイトインクやスカリフィケーションによって図案を施す事例はそれほど珍しいものではない。地と図は相互に転換しながら肌の奥に堆積する。肌。非選択的・非可変的でありながら、われわれに与えられたもっとも広い、世界とのインターフェース。タトゥーはそんな肌に対して一定の選択の余地を幻視させることで、われわれに自らの還る場所を定め直すよう仕向ける。

かつて松田修は「白い肌と青い肌とはどのように接触を重ねても、所詮連帯は生じない。人種とか性とかによる区別分類はむなしい。青い肌か、白い肌か、その二種類の人間がいるにすぎない」と、タトゥーを施すことによる日常との絶対的な断絶を述べた(3)

この背景には、受動的な生の一回性から能動的な生の一回性へと跳び移る身振りが想定されている。われわれはどこから来てどこへ行くのか。無根拠な身体にかりそめの寄る辺を与えること。技術による絶えざる肉体の再編を馴致する者をサイボーグと呼ぶのなら、その原型の一つとして確かにタトゥーは存在している——この主張は、連綿と続くタトゥーの実践に一定の納得感を与えてくれるように見える。

しかし、ブラックアウトおよびそれに付随する多段階的なカバーアップは、タトゥーの聖なる一回性を蹂躙するがごとき黒の魔力を放っている。それはわれわれを徹底的に既存社会から切断すると同時に、アーティストや図案にもとづく区別や連帯さえも塗りつぶしてゆく。

今日のタトゥーとはもはや、油絵のごとく折り重なり、刷新されながら、徐々に漆黒へと近づいてゆくレイヤーとなりつつあるのかもしれない。その先に待つのは、互いに見分けがつかないほどに真黒く変じた身体の群である。ここにおいて、タトゥーの秘匿と顕示、個別性と普遍性の対立は調停される。

いささか胡乱な連想をするならば——かつてアフリカから生まれ広がった人間たちはふたたび、技術と文化のしるしによってその身を黒く染め直している。タトゥーが人種や民族から解き放たれた新たなる連帯のあかしなのだとすれば、その者たちは一体、いかなる共同体へとその身を還すのか。


さて、タトゥーについて語る上で、表現形式、社会との関係性とともに言及されやすいのが痛みだろう。タトゥーを刻むことは、痛みとその治癒を伴った真に私的な体験の獲得である、と。

痛みという強烈な肉体反応をいかに捉えるべきかは、多くアートにおいて探索されてきたわけだが、それらの系譜に安易にタトゥーを並べることは少々、面白みに欠ける。そもそもタトゥーに限らず身体変工においては、施術時の痛みよりも、その治癒過程や持続のためのケアの方がよほど長く苦しい場合が多い。

そう、つまりわれわれは、痛みという特異点ではなくその周縁、すなわち、痒み、炎症、免疫反応といったものたちをこそ取り上げるべきであろう。そしてそれは、肌という世界とのインターフェースの本来的な機能が浮き彫りになる瞬間である。

熱を帯びて赤らんだ施術箇所は漏れ出した滲出液しんしゅつえきにふやけ、やがて痒みとともに古い皮膚片を吐き出す。この一連の過程はおおよそひと月ほどかけて進行し、インクは真皮層へと定着する。そこには、複数のスケールにおける拒絶と受容のプロセスが存在している。

研究によれば、真皮層でマクロファージに貪食された色素は、マクロファージが代替わりしても引き継がれ続けるという。まったき外部がいつの間にか、自分自身と不可分になること。トライバルタトゥーイストの大島托はこうした、タトゥーがその定着過程を通じて、自己の内外や生死の界面を壊乱/再定義する様を差して「タトゥーは死のワクチン」だと述べた

自らの身体に外部を招き入れること、いや、そもそもわれわれとは、世界を満たす夥しい粒子がその肌を貫くことによってかろうじて素描されているに過ぎないことを、タトゥー獲得のプロセスは示唆してくれる。われわれの五感が捉えてこなかった世界への窓を、肉体の免疫反応が開け放っているとするならば——古来より無数の民族において、タトゥーには霊力が宿るとされてきた。それがまさに文字通り、もう一つの世界と接続する力であるとするならば。


最後に、冒頭の「InfoWars」へのYeの出演に関して付言しておこう。動画に登場する彼は厳密には「Ye」ではなく、黒いマスクで顔を隠した「Yeとされる人物」である。かつて鷲田清一は、覆われた顔の不気味さに関して、われわれのコミュニケーションの特性から考察を図っている

つまり、人は他人の顔からその痕跡を拾い上げることによってはじめて、自らの顔を顧みることができるがゆえに、顔を隠すことはそうした合わせ鏡的な無限の相互参照の連鎖を断ち切る行為であるのだ、と。われわれは相手の顔が見えないことを恐れるのではない。それを通じて自分が自分の顔を見ることができないという素朴な不能に気づくことにこそ、恐れを抱くのである。

しかしここまで見てきたように、顔を隠したところで、われわれの肌は常に無数の世界の欠片に曝され、貫かれ、かぶれている。われわれのもの言わぬ肉体は常に、爛れながらこの世界と交信を続けている。全身を真っ黒に塗りつぶされた者たちが最後に流れ着く共同体。もしそんなものがあるとするならば、それはおそらく、こうした交信によって築かれるものではなかろうか。

近年のYeの言動を受け、ロンドンのタトゥー除去施設「NAAMA」は、Yeに関連するタトゥーの除去を無料で引き受けることを広告した。しかし実際に必要なのは、肌に刻まれたYeの顔をレーザーで焼くことではなく、その上からブラックアウトを施すことではなかったろうか。

肌に消えない黒のマスクを被せること。それは、隠すことと曝すことが同義であると宣言することにほかならない。

(1)ドイツ語の原著の題は『Ornament und Verbrechen』であり、この英訳が『Ornament and Crime』である。Verbrechenは元々は「壊す」を意味するbrechenの強調。
(2)ここではスタイルや文化的役割の別によらず、針などによる傷跡に色素を流し込むことで肌の上に図像を表現する行為全般を指して用いる。
(3)以下より引用。松田修(1972)『刺青・性・死——逆光の日本美』平凡社、p10

参考資料
大島托(2022)『一滴の黒』ケンエレブックス
黒嵜想、亜鶴(2019)「「タトゥーは自己表現じゃない」アーティスト亜鶴ロングインタビュー」、<https://note.com/kurosoo/n/neb94c83fbdbf>、(閲覧日:2022年12月8日)
春日武彦(2009)『顔面考』河出書房新社
アルフォンソ・リンギス(2006)『何も共有していない者たちの共同体』野谷啓二(訳)、洛北出版
鷲田清一、田中純(2005)「都市の皮膜/身体の皮膜」、『10+1』No.40、INAX出版、54-69
田中純(2005)「アハスウェルスの顔——都市の生命記憶へ」、『10+1』No.40、INAX出版、2-12
五十嵐光二(2005)「エンプティ・フェイス 近代都市計画の精神病理」、『10+1』No.40、INAX出版、100-107
平井倫行(2021)「繍る海 松田修における「青」と「刺青」の用語形成」、『機関精神史 第四号』、144-159
大貫菜穂(2021)「受肉した肌をみる痛み 現代日本におけるイレズミと身体の感性学的受容論」、『現代思想』2021年11月号、青土社、209-217
ゴンサロ・M・タヴァレス(2021)『エルサレム』木下眞穂(訳)、河出書房新社

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