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【リレーコラム】現代小説にあふれる<日常>の記号としてのマスク(栗原悠)

PROFILE|プロフィール
栗原 悠

早稲田大学国際文学館・助教、大東文化大学非常勤講師。博士(文学)。専門は日本の近現代文学、特に1920-30年代の文学と社会思想やメディアとの関係について研究している。2022年は『週刊読書人』で文芸時評を連載中。
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ベルの音高く、あらはれたのはすらり・・・とした肩の滑り、デードン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白リボン清く、着物は矢絣やがすりの風通、袖長ければ風に靡いて色美しく品高き十八九の令嬢である”

これは、1903年に『読売新聞』に連載されるや大きな話題を呼んだ小杉天外「魔風恋風」の冒頭近く、主人公の女学生・萩原初野が登場する一幕である。
「色美しく品高き十八九の令嬢」である初野が颯爽と「自転車」を漕ぎながら人々の前に現れるこのインパクトの強い場面において注目されるのは、その外見に関する描写の充実ぶりだろう。現代のほとんどの読者には注釈なしに伝わらないと思うが、「海老茶の袴」に「白リボン」、「着物は矢絣」と言えば、この時代の女学生たちの典型的なモードであり、(そもそもこの場面自体が女子学院の門前ではある、という設定はさておき)当時の読者たちの多くはそれらの記号的な情報の羅列からこの「令嬢」がどんなキャラクターであったのかを容易にイメージ出来たはずなのだ。
付け加えて言えば、「結流し」というややラフなヘアスタイル、最新の交通手段であった「自転車」での通学などは、そんな流行に乗った女学生のなかでもかなりエッジの効いた部類であると読まれただろうし、あまつさえ保守的な読者には堕落的、不良的と受け取られたかも知れない(ある意味でそうした記号が示唆するように、初野の運命はこの自転車での事故を端緒として最悪の方向に転がっていくのだ)。
とまれ、このように小説には、人物のファッションがある種の記号として、想定された読者たち(「魔風恋風」であればまずは『読売新聞』の購読者)との暗黙のコンセンサスを前提に、しばしば言外の意味を含んだ形で用いられることがある。
もちろん、これは近代に限った話ではない。身分とファッション(装束)が不可分なものとしてあった前近代の社会における創作の方がむしろそうした傾向は強いのかも知れない。しかし、かりそめにも身分制が放棄され、各々が自ら選んだものを身に纏う近代以降の消費文化の隆盛こそが表現のバラエティを豊かにしていった面もたしかにあるだろう。
実際、「魔風恋風」から80年近く経ち、消費文化論の華やかなりし時代に書かれた田中康夫の「なんとなく、クリスタル」は、当時人気のあったブランドやファッションアイテムを敢えてこれでもかというほどに盛り込んでおり、今読むとむしろ往時の風俗を知るためのカタログといった風格さえある。田中の例はやや極端だとしても、そうした記号の表現性が時代を超えて有効であることに異論はないはずだ。
ところで、今更ながら私の研究上の狭義の専門は冒頭に取り上げたような日本の近代文学(主に1920-30年代前後の小説など)である一方、今年は依頼をいただいて『週刊読書人』という読書新聞で月一回の文芸時評の連載を担当させてもらっている。
これは月刊と季刊の商業文芸誌掲載の創作を片っ端から読んでいき、そのなかのいくつかをピックアップして2,000字ほどで論評するというものすごく骨の折れる、もといやりがいのある仕事なのだが、毎月まとまった数の現代の小説を読んでいて何より目につくことは、そこに描かれるマスク・ファッションの人物の多さである。
先に弁解するならば、先の記号性の話の延長線上にマスクを以てCOVID-19流行下の現代の状況、すなわち〈日常〉が示されているといった百人いれば百人が気づくような解釈を今更強調しても詮ないことは承知している。しかしこのマスクというアイテムは、従来は個々の衛生観に基づく一定の自由意志における選択結果のはずだったが、COVID-19流行下の公共空間にあっては半ば装着を義務づけられたものユニフォームとなっている。

そして、こと日本に関しては諸外国と比べても強いマスクの規範意識が人々に対して良くも悪くも大きな影響を与えてきた。もちろん、実際の感染症予防におけるマスク装着の科学的な効果のほどを否定するつもりがないことをイクスキューズしつつ、かような状況を踏まえるならば、そうしたアイテムがフィクションにおける〈日常〉の記号として当然のように機能・流通してしまっている状況については、立ち止まって考える必要もあるのではないかと思う。
というのも、ある物語のなかでマスク・ファッションが〈日常〉になっているのだとすれば、それと逆にマスクをしないという選択・・・・・・・・・・・・が含意するのは、〈日常〉に亀裂を入れ、その世界に〈非日常〉を喚び込むことにほかならないからだ。現実でもマスクをせずに飲食店に入ってきた客がマスクの着用を願い出た店員とトラブルに発展……といったニュースはここ二年余の間に数え切れないほど見聞きしたし、ゆえにしばしばノーマスクはいわゆる「ヤバい奴」の徴として扱われてきた。

しかし、フィクションのなかでマスクをしないこと・・・・・・・・・がこれと同様に扱われることは、単なる現実を写し取ることリアリズムを超えて再帰的に現実のスティグマを強化していってしまう。ある面では現実社会に潜むさまざまなしがらみを相対化させる犀利な洞察を含みながら、もはやマスクをすることがただ服を着ていることと同じくらいに〈日常〉になってしまったがゆえ、その記号性についてはむしろ無防備に濫用されている。現代小説のなかにあふれるマスク・ファッションを読むにつけ感じるのは、そのような問題である。(1)

(1)この点に関して荻原浩「ワンダーランド急行」では、普段と違う電車に乗ったサラリーマンの主人公がコロナ禍の現代から誰一人としてマスクをしていない、ある種のパラレルワールドに迷い込んでしまうさまが描かれており、既にそうした状況が別の秩序としてイメージされていて興味深い。

※ 「魔風恋風」の本文は小杉天外『魔風恋風 前編』(春陽堂、1903.11)に拠る。なお、ルビは適宜省略した。

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