ある日、長年履き続けている大切な革靴が壊れてしまった。購入した靴店や駅前の靴修理店に相談しても、「修理できない」という。新しい靴を買えばいいのだが、この靴には苦楽を共にしたさまざまな思い出があるから、おいそれとは捨てられない。
「できることならば、直してもう一度履きたい」。もし、そんな靴が手元にあれば、横浜近郊の静かな商店街にある
ハドソン靴店へ。お話好きの腕利き職人がとことん相談にのってくれるから。
PROFILE|プロフィール
村上 塁(むらかみ るい)
ハドソン靴店 店主。1982年、神奈川県横浜市出身。もともとは理系の大 学でF1やロケットの部品作りを学んでいたが、テレビで見たオーダー靴を作る職人の姿に魅了され、東京の靴の専門学校へ。その後、ハドソン靴店の佐藤正利に師事し、靴作りの修行を積む。佐藤氏の急逝後、店を受け継ぎ、靴修理の店をスタート。
ハドソン靴店は、もともとどんな店だったんですか?
靴職人の佐藤正利さんが1961年に開業した靴店です。佐藤さんは横浜で最後の手製靴職人といわれた方で、吉田茂元首相や俳優の石原裕次郎さんといった著名人の靴をたくさん手がけていました。私は東京にある靴作りの専門学校に通っていた頃に、そこの先生の紹介で弟子入りできました。ちなみに店名の由来は、先輩から聞いた話ですが、佐藤さんが修行していた製靴店のオヤジさんがバイクに乗る方で、特に気に入っていたニューハドソンのバイクから命名してもらったそうです。
佐藤さんは、「東京の関、横浜の佐藤」と呼ばれた名人ですね。どんな方でしたか?
昔気質の靴職人は、ぶっきらぼうな方が多いのですが、佐藤さんは温厚でスマートな方でした。もちろん仕事に関しては厳しかったですが……。職人の世界では、「技は見て盗め」と言いますが、私も師匠の手の動きを見て、技術を学びました。お弟子さんが師匠のお店を継いだということですか?
はい。2011年に佐藤さんが亡くなった後、お店は1年ほど閉店していました。私が焼香するためにお店を訪れると、おかみさんが「お店を継ぐ人がいないから、店を閉めようと思う」とおっしゃるんです。当時、私は浅草に勤めていて、小さな工房で手製靴を作っていました。ですが、経営はなかなかうまくいかず、この道に見切りをつけようと考えていた頃でした。
「靴の仕事を続けるなら、ここでやってみたら」というおかみさんの後押しもあり、もう一度、ここでやってみようと思ったんです。私はハドソン靴店の2代目の店主となります。
手製靴の技術を生かした修 理が評判に
なぜ、靴修理をメインにしたんですか?
今の世の中、革靴を履く人は減る一方で、よほどのブランド力や知名度がなければ、靴作りだけで食べていくことは難しい。そこで靴作りにこだわらず、修理を始めたんです。すると、これが想像以上に好評で……。作業が難しい、手間がかかる、などの理由から、靴の修理店や販売店に修理を断られた靴は少なくないんです。その点、手製靴をいちから作れる技術があれば、他店で断られた修理にも幅広く対応できます。「横浜のハドソンさんなら、もしかしたら……」と、全国の靴専門店や百貨店のご紹介でいらっしゃるお客様も多いです。
たしかに、本格的な靴職人が手がける修理店ってあまりないですね。
私は東京の手製靴職人である関信義さんにも靴作りを教わったんです。佐藤さんも、関さんも、常々弟子たちにこう言っていました。「食うために職人をやれ。そのために柔軟に対応しろ」
日本では、靴職人になることよりも、靴職人として生計を立てていくほうがよほど難しい。私は店を継いだときに、この言葉をあらためて胸に刻みました。
修理ではどんなことを心がけていますか?
お客様に心から満足していただくには、自分の技術を見せつけるのではなく、お客様のニーズに的確に対応することが肝心です。そのためには「お客様が求めていること」を正確に知らなくてはなりません。そのため、最初の打ち合わせには時間をかけます。初めてのお客様の場合は2~3時間くらい話し込むことも。話をしながら、その方が持っている靴への思い入れやこだわりなども確認し、料金を説明したうえで、修理の内容を決めていきます。
最近は遠方のお客様も増えてきたので、ご来店が難しい場合は、宅配便で送っていただき、後日、電話やLINEで打ち合わせをしています。