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【リレーコラム】100年前の「新しい女」たちのことを考える ーー女性ジェンダーとファッションの交錯の歴史(近藤銀河)

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PROFILE|プロフィール
近藤銀河
近藤銀河

1992年、日本で生まれる。アーティスト、ライター、研究者、パンセクシャル、車いすユーザー。彼女は主に女性同性愛と美術の関係をテーマに研究を行い、作品を発表している。作品では3Dプリンタや、CG映像、そしてVRなどを用いて、マイノリティと歴史の関係を問うている。ライターとしてフェミニズム、クィアの観点からサブカルチャーに関する寄稿を多数、行っている。
https://gingakondo.wordpress.com/

出かける前、今日は何を着よう?と考える時に、服を選ぶというのは色んな制約があることに気付かされる。外出の種類によっては、すでに設定されたコードがあってそれに応じた服を選ぶ必要が出てきてしまう。
たとえ、何を着ても良いような用事であっても、自分に似合っているかとか、自分が望むような自分を相手に伝えられるだろうかとか、色々なことを考えてしまう。
こういう服を選ぶ時に考えることの裏には、往々にしてジェンダーにまつわる事柄がグチョッと塗られている。TPOを選ぶときには、ジェンダー規範にガッチリ乗った服を選ばないといけない。
似合う服、似合わない服というものだって、そこには(自分のジェンダーにとって)とか、時には(望まれているジェンダーにとって)という前提が付けられていたりする。
たとえば機能がジェンダーによって異なり、ウィメンズの服は実用的な機能性が低いということはよく言われることだ。ただ、だからと言って、メンズを明日から着よう!というのも人によっては自己イメージとの間に齟齬が起きたりすることもあって簡単ではない。私たちは様々なジェンダーに自分をアイデンティファイしていて、それは生の尊厳にも関わる。
この自由に選択できるように見えて、実は全然自由ではない、という状況はジェンダーそのものが置かれている状態そのものでもある。それは作られたもので、初めからあるものではないけど、同時に自由に選べるようなものでもない。そして、それが差別的に働く時(特に異性愛を前提とした現代の社会の中で)、ジェンダーによる制約は激しい痛みを生む。

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