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【リレーコラム】言語化とその副作用(Ken Haga)

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PROFILE|プロフィール
Ken Haga
Ken Haga

1996年生まれ

主な仕事に文化服装学院100周年記念ランウェイなど

リレーコラムに誘っていただくにあたり、コンセプトを確認させていただいた。

連載企画としてお届けするこのリレーコラムは、「ファッション」と「テクノロジー」の両面にフォーカス。ファッションに直接的にアプローチする方々以外にも、多様な分野で活躍する執筆者の方々を招き、衣服、身体、文化産業、消費文化、メディア、空間、コミュニケーションといった多様な観点から、「ファッション」や「テクノロジー」に対する論点を探していきます。

となっている。
明言はされていないが、衣服を中心に紹介制で執筆者を数珠つなぎにすることで自分たちではリーチできなかった(普段は文字情報になっていない)現場の声を聞き出そう、という解釈ができなくはないだろう。

言語に日々振り回される

その推察に則り、今回はつくり手による言語化にピントを合わせて議論を提供しようと思う。言葉及び文字は、人間が作るものの中でもっとも重量がなく、明快で、誤読が少なく、早く広く伝わる媒介として優れた発明品である。ただ、その特徴故に副作用が生じる。

言葉だけで良かったよね

たとえば、現代美術の作品を鑑賞する際に、キャプションを読むだけで満足してしまうことはないだろうか? 私はかなり多くの場合、そのような事象に陥り、自分の感受性を疑い苦しむ。キャプションが面白く、その文章の内容をフィジカルに表しているのが作品の場合、自分はキャプションだけで満足してしまう。
偏見込みで、もう少し具体的に記述すると、言葉をつかって面白い議論を哲学者などよりも組み立てることのできる人は、逆に力のある「もの」を作ることができていないケースがある。そのため、キャプションを読むだけでいいよね現象が生まれる。一方で、言葉以外を作ることのプロたちは言葉と論理の専門家ではないので、無理に言語化しなくてはいけない圧力に屈し哲学の劣化版のようなこと、ものを美術館で繰り広げてしまう。
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