Fashion Tech News symbol
Fashion Tech News logo

【リレーコラム】「制服」ではない? 聖職者が身にまとうもの(牧田小有玲)

PROFILE|プロフィール
牧田小有玲
牧田小有玲

慶應義塾大学社会学研究科博士課程在籍、(公財)宗教情報リサーチセンター研究員。専門は宗教人類学、ジェンダー研究。現代神社神道の女性神職が実践する宗教的/ジェンダー的規範について研究している。論文に「神社神道で構築されるジェンダー規範についての一考察 ―女性神職に関する言説分析から」『宗教学論集』第42輯(2023年)がある。

世の中の職業には、いろいろな「制服」がある。たとえば警察官、看護師、消防士など。もしかしたらいわゆる「サラリーマン」の着るスーツも制服と呼べるのかもしれない。
では、神社にいる神職(神主)の装束や、お寺にいる僧侶の袈裟などは、どうだろうか。「制服」かどうかと聞かれると、少し首をかしげる人もいるかもしれない。たぶん私は、YESと即答できないだろう。
なぜなら、宗教に携わる人々「聖職者[1]」は一般的な職業とは少し違った、“特殊”で“神聖”なイメージがあって、「制服」と呼ぶには身体との結びつきを強く感じてしまうからではないだろうか。実際に、神主の装束や僧侶の袈裟は、近代以降の変化や国や地域による差異はあるものの、それ自体に歴史的な背景があり、また宗教の規範や文化とも密接な関係を持っている。若い人が、正月に巫女のアルバイトとして白衣と緋袴を身に着けることに憧れを持つのも、そのような文脈を意識するからかもしれない。だからこそ、聖職者が身に着けるものは、職業や地位を示す「制服」とは一線を画しているというふうに、当事者も、周囲の人々も感じているのではないだろうか。
なぜこのようなことを考えるのかというと、聖職者の着るものが「制服」ではないというイメージは、聖職者と一般的な職業との隔たりをよく示していると思ったからだ。

「聖職者ではないのだから」言説

少し話は変わるが、長時間労働や低賃金などをはじめとした過酷な労働環境に苦しむ学校教師たちの状況が、メディアで取り上げられることがよくある。彼らにも労働者としての諸基準を当然適用させるべきであるという論調の中でよく出てくるのは、「教師は聖職者ではないのだから」という言説だ。[2]
この言説は、学校の教師に限らず、警察官や消防士など、人々のために献身的に尽くすことが理想とされる側面を持つ職業の人々に使われることが多々ある。「聖職者ではないのだから、労働者としての権利を確保すべきである。休みは必要だし、残業代も支払うべきだ」といった具合に、彼らを聖職者と差別化する。それはその通りだと思う一方で、宗教を研究する私の頭にどうしてもよぎってしまうのは、「聖職者だったらいいのか?」という疑問である。
私は宗教人類学を専門として、神社にいる女性神職の調査をしている。神職らは、白衣に袴を身に着けて神社の授与所にいたり、たまに装束を着て御祈祷や祭りに奉仕したりする。ちなみに私自身も、実家が神社で神職の資格を持っている。[3]
学校の教師らについて「聖職者ではないのだから」と語られるたびに、私は妙な説得感を得るのと同時に、聖職者はやはり一般的に異化されているのだという疎外感も覚える。

聖職者は特殊か?

実際に、聖職者は一般的な職業とは大きく異なる要素も多い。たとえば神社の神職に関していえば、神職になるために精神面・身体面の訓練を受けて、然るべき資格を得る必要がある。[4]また、大きな神社であれば複数人の神職がシフト制などで勤務し給与が与えられる一方、地方の神社では神社の収入だけで生活のための稼ぎを得ることは難しいことも多い。それでも彼ら/彼女らが「神職」であるということは、「労働者」としてではなく、自身の生き方や信仰・規範、また地域などの共同体や家族との関係性などを通して自己と向き合う作業が求められるのだ。
こういう意味で、やはり聖職者の営みは、一般的な職業の「労働」観では見えないことが非常に多い。
だがその一方で、聖職者を異化しすぎてしまうことにはリスクも伴う。一般的な職業と乖離した“神聖な”イメージは、労働環境の問題点や社会構造による不平等をどこまでも不可視化・正当化してしまう危険性があるからだ。たとえば、時間外労働が強いられることや、女性神職を採用しない神社があることなどを、「聖職者だから」または「伝統だから」の一言で、議論もなく等閑に付してしまうことは、構造的不平等の再生産に直結するおそれがある。
もちろん、それぞれの神社、広げればそれぞれの宗教にはこれまで培われてきた歴史があり、聖職者たちは先人の実践や教義における規範を踏襲・厳守する必要があることは忘れてはいけない。したがってすべての問題を西洋近代的な人権論や労働観で解決することはできないし、もしできてもそれは極めて暴力的な処置になってしまう。だからこそ、聖職者として生きる当事者たちのあいだで、これからの時代、自身らが身を置く環境についての議論を行うことが一層求められているのではないだろうか。

おわりに

身に着けるものは、その人の属性を固定化し、他者として認識するための材料になりうる。
これを読んでくださっている多くの人々にとって、神社やお寺という宗教的な空間で、装束や袈裟を身にまとう聖職者たちは、我々とは違う“特殊”で“神聖”な存在に見えるだろう。彼ら/彼女らはある部分ではたしかに“特殊”だが、ある部分では“普通”の人々と地続きの世界を生きていることを、少しでも想像していただけたら嬉しい。

[1]「聖職者」はもともと西洋の宗教にルーツを持つ言葉のため、日本の神社の「神職」が正確な意味で聖職者であるか否かについては議論を要するが、一般的に現代日本では、宗教上の職位に身を置く立場として「聖職者」とみなされている。
[2]教師が「聖職者」として比喩されるようになったのは近代以降で、子どもたちに学問だけでなく道徳をも教える存在として献身的に教育に携わる姿が理想化されてきた過去があり、これを「教師聖職者論」と呼ぶ。東京財団政策研究所 2022「Q.教師は「聖職者」かそれとも「労働者」か?―対立する教師像―」『Teachers in AI Era』 https://teachers-in-ai-era.jp/history/2022-05-10-0051.html 2023年3月25日閲覧
[3]資格の必要性や種類は、宗派によって異なる。神社神道の一般的な神社では、多くの場合、宗教法人神社本庁が定めるところの神職資格が必要とされる。

この記事をシェアする