PROFILE|プロフィール

伊藤 連(いとう れん)
1997年、東京生。学術修士(東京大学)。ソルボンヌ・ヌーヴェル大学(パリ第3大学)およびソルボンヌ大学(パリ第4大学)修士課程在籍。専門は、フランス文学・思想史。現在はとくに、17世紀の司教ボシュエがルイ14世王太子の教育のために著した作品を研究している。それとは別に、日本の現代詩についても時々文章を発表している。
ごくありふれた比喩として、人生を花に擬えることがある。蕾のような幼少期を経て、花盛りの青春に達したかと思えば、たちまち枯れ萎み、花が散る。私たちの生は通常、花のそれと比べればとても長く、たとえば老年に達するまで生きるのだとしたら、年に1度しか咲かない花であっても70回、80回の循環を見ることができる。それでも、ひとは、花の生の相対的な短さを見つめるとき、自らの生の相対的な長さを思って安心したり、また逆に不安になったりするのではなく、むしろ私たちの生の短さ、儚さをこそ思ってきた。奇妙といえば奇妙なことである。
そもそもひとは、花の生の全体を見ているわけではない。観察日記をつけている小学生であれ、蕾の膨らみから開花を、そして 萎みゆく姿を、鉢の前に座りこんで眺めつづけることはない。あるときに蕾であったものが、しばらくして開き、気がつけば萎んでいるというのが、ひとと花の関わり方である。花の生の──さらには生なるもの一般の──儚さの印象をひとに刻むのは、花それ自体が辿る経過というよりも、むしろそれを見る意識の側にある、この時の間隙だというべきかもしれない。
ひとつの事例として、16世紀フランスの頌歌から数行を抜粋してみよう。ここでは精緻な分析が目的ではないから、原詩の韻律は無視して散文に訳し引用する。