2022.11.07

【リレーコラム】「新しい身体」をつくりだすこと——近代日本における着物の改良をめぐって(鈴木彩希)

PROFILE|プロフィール
鈴木彩希
鈴木彩希

神戸大学大学院人間発達環境学研究科博士課程後期課程。専門は日本ファッション史、ファッション文化論。主な論文に「戦後日本における着物の改良をめぐる流行創出の試み——田中千代の「ニュー・きもの」を中心に」『服飾美学』66号(2020)、「戦後における着物の改良と「新しいキモノ」の潮流——雑誌『美しいキモノ』の分析から」『デザイン理論』80号(2022)など。ファッションの批評誌『vanitas』(アダチプレス)編集補助を務める。
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私は、今年で82歳を迎えた祖母とともに暮らしている。彼女は着飾ることが大好きで、洋服はもっぱら自分と同世代のファッション・デザイナーたちが手がけたものを着る。一方で祖母は、着物もたくさん桐箪笥にしまい込んでいる。時にはお気に入りの一枚をひっぱりだし、器用に着付けて出かけていく。

太平洋戦争の勃発間近に生まれた祖母は、日常的に着物を身につけていた世代ではない。それでも彼女は、人々の装いが着物から洋服へと徐々に変わる様を目撃してきたのだろう。「着物は動きにくいけど、昔の人はいつも着物だったから」と、その不便な身体を手放さない。

日本は、洋服を「受け容れた」特殊な衣事情を持つが、その受容は簡単に成し遂げられるものではなかった。井上雅人が説明するように、女性の洋装化とは前近代的な「動きづらい古い身体」を捨て去ることであり、その後には「新しい身体」が用意されなければならなかった (1)。その「新しい身体」の形成は—ちょうど着物を手放さない祖母のように—洋服と着物のはざまでゆらぎながら、洋装化の過程において幾度となく試みられる。

このコラムでは、近代日本の人々が「新しい身体」を形成しようと格闘してきた痕跡として、「着物の改良」という一時期の潮流を紹介したい。

活動的な身体を目指して

太平洋戦争が始まる少し前の1940年に「大日本国民服(以下、国民服)」という衣服が制定された。これは軍服としての性格を持ちながら、作業服としての役割を果たし、宮中にも参内できるような特殊な衣服であったという。

国民服は、はっきりと軍服とは明記されなかったものの、その目的は軍服を民間に貯蔵し、軍事的な資源を確保することであった。そうした「国民服」を補完する衣服として1942年に制定されたものが、女性用の「婦人標準服(以下、標準服)」である(2)

第二次世界大戦における総動員体制は、国民を軍人化することを目的としていた。そのような体制のもと、女性の身体には「より機械論的な合理性(3)」が求められることになったのである。そうして用意された身体観によって女性たちは活動的な衣服を追求することになる。その渦中にあった衣服が標準服であった。

しかし、女性の衣服をいかに合理化するかという議論については、その制定が決定する以前より白熱していたのだ。

例えば1937年8月30日付の朝日新聞には、「廃物衣装に一工夫—作るは易く活動にも便利」という見出しで、着物を改良してツーピースの衣服を制作する試みが掲載されている【図1】。この衣服は「三重奏(トリオ)」と名付けられ、考案者には「蜂須賀女史」とある。考案者の詳細についてはこれ以上の記載がないのでわからないが、おそらく徳川慶喜の孫で侯爵・蜂須賀正韶の娘である蜂須賀年子のことだろう。

彼女は、蜂須賀ホームスパン研究所を設立し、岡登貞治と共編で『手芸の事典』(1964年、東京堂出版)を刊行するなど、手芸に関する活動を行っていた(4)。紙面を読むと、二反の着物を使用して上衣と下衣二着の衣服と帯を新たに作るという。また「非常時的更生を計られては如何でせうか」という記述からは、これが総動員体制を意識して提案された衣服だということは想像に難くない。要するに、資源の節約と動きやすさという合理性を叶えた衣服がこの「三重奏」だということだ。

画像: 【図1】『朝日新聞』1937年8月20日朝刊10頁。
【図1】『朝日新聞』1937年8月20日朝刊10頁。

さらに、下部にある説明をみてみよう。「下身頃は(…)謂はゞスカートの前を割いた形になるわけです」という記載がある。スカートという洋服を意識させながらも、それ以上に動きやすい衣服であるといわんばかりの表現で、少しずつ古い身体を脱ぎ捨て、新しい身体を獲得しようと提案をするのだ。そしてそれは、家にある着物を使って誰でも簡単に行うことができるという。

「三重奏」の「ツーピース」という形態は、実は標準服にも採用されていた(5)。資源の確保と「日本的」であることが同時に目指されていた標準服にとっては、着物の形を保持しつつ、従来の着物よりも活動性のあるこの形態は都合がよかったのだろう。

しかし、標準服という日本独自の衣服をつくりだし定着させる試みは失敗に終わった。結果的にはモンペというズボン式の衣服が女性たちの口コミによって拡がり、「からだを動かす活動のためのまちがいなく日本原産のモード(6)」となっていったのだ。

洋裁技術と「新しい身体」

戦後になると、それまで足踏みしていた洋装化が進むことになる。それを可能にしたのは、総動員体制下で形成された新たな身体観だけではない。戦後に急増する洋裁学校で、女性たちがそうした身体観に見合った衣服制作の技術を学ぶことができたからである。

そしてそれに伴う家庭用ミシンというテクノロジーの普及についても忘れてはならない。こうしたいくつもの複合的な要素が重なり、戦後には多くの女性が洋服を着るようになった。

一方で、着物は相対化され、非機能的で前近代的な女性像を想起させるものとして批判の的となったのである。しかし、洋服の隆盛とともに着物への批判が語られるその裏で、着物を再び改良しようという動きが高まりを見せる。こうした改良は、着物の「合理化」を図り、着物が「古い身体」を形成するという観念を払拭することで、日常着としての着物を呼び戻すことを目指していた。さらには、着物を西洋人の身体にも適合させることで、「日本独自のファッション」をつくりだそうとする産業的な側面もあった。

戦後に改良を施された着物には、「新しいキモノ(きもの)」「ニューきもの」「モダンなきもの」など、さまざまな名称がある。呼び方は安定せずとも、その名称には前近代的な衣服である「着物」とは違うという主張が込められていた。

また、改良の仕方も一様ではない。具体的な改良の例を紹介すると、戦後に新しく登場する合成化学繊維を用いた生地が使用されていたり、衿を抜く、帯を通常の位置からずらして結ぶなど、着こなしにも変化がもたらされていた。さらには、大胆にも裾を短く切った形や戦前の改良にみられたツーピースも確認できる(7)

こうした戦後の改良について特筆すべきは、洋裁技術が用いられ、洋服デザイナーや洋裁教育者たちによって行われていたことだ。そのひとつを紹介しよう。【図2】は、田中千代による「カクテル風なきもの」である。通常、着物をつくるときには袖、衿、身頃などのパーツを直線に裁断し、それを縫い合わせる。そうすることで身体のラインを隠すようなシルエットが作り出されるのだ。

しかし「カクテル風なきもの」では、パーツの大部分は直線であるものの、わずかにカーブが入っていることがわかる。さらに、製図には丁寧な記述がなされているように、ダーツやタックなど服を身体にフィットさせる洋裁技術が用いられている。

画像: 【図2】田中千代による「カクテル風なきもの」。『婦人画報』585号、婦人画報社、1953年5月、p.104。
【図2】田中千代による「カクテル風なきもの」。『婦人画報』585号、婦人画報社、1953年5月、p.104。

こうした洋裁技術を用いた着物の改良は、人々により強く身体のあり方を意識させることとなる。田中は改良がもたらした身体に対して、以下のように言及している。

重量から、また圧迫から、拘束から解放されつつある姿を、表現している新しいきものに、新鮮さが感じられ、現代を意識させるのである(8)

田中によると、「新しいきもの」は、前近代的な拘束から解放された「現代の」身体を表現するというのだ。田中の発言は、「古い身体」を捨てた後の「新しい身体」が、洋服でも着物でもない、「新しいきもの」という衣服によってつくりだされようとしていたことを明らかにする。

着物に改良を施すという動きは、1960年代における既製服の隆盛により影を潜めていき、その後普及することはなかった。強調しておきたいのは、この「新しいきもの」と田中が呼ぶ着物の改良は、多くの女性たちが洋裁技術やミシンを扱うようになった戦後の一時期に特有の事象であることだ。

しかし、そうした一時期の潮流である着物の改良は、女性たちが衣服を通して自らの身体と向き合ってきたこと、そして洋装化が洋服へと着替えることだけで達成されるものではなかったことを教えてくれる。

おわりに

最後になるが、私はこれまで近代日本における「着物の改良」を通して洋装への転換期の再考を試みてきた。このコラムは、そうした研究の一端である。「着物の改良」という対象に目を向けた理由は、洋服と着物を着こなし、おしゃれを楽しむ祖母の姿を見て、「なぜ彼女(たち)は着物を手放すことができないのか」と祖母が経験してきた衣服環境に興味を抱いたからだ。

調査の対象となる同時代の雑誌や書籍を読んでいると、祖母の歴史を断片的に垣間見て、それを少しずつ紡いでいるような気分になる。大袈裟な言い方かもしれないが、ファッションの歴史を研究すること、それは同時代の社会のあり方を浮き彫りにすると同時に、決して大文字の「歴史」になり得ない、人々の生きてきた証を明らかにすることなのかもしれない。

(1)井上雅人『ファッションの哲学』ミネルヴァ書房、2021年、361頁。
(2)「国民服」と「婦人標準服」の制定にかかわる議論の詳細については、井上雅人『洋服と日本人——国民服というモード』廣済堂出版、2001年を参照されたい。
(3)井上雅人『洋裁文化と日本のファッション』青弓社、2019年、25頁。
(4)大井三代子 「蜂須賀正韶と笛子——下田歌子研究(一)」『實踐國文學』第92号、実践女子大学、2017年、pp.205-234を参照。
(5)婦人標準服は、洋服式の甲型、和服式の乙型といった二つの基本型に分けられ、それぞれに一部式、二部式があった。さらにそのなかで一号、二号という区分がある。
(6)アンドルー・ゴードン『ミシンと日本の近代——消費者の創出』大島かおり訳、みすず書房、2013年、220頁。
(7)戦後に現れた着物の改良の潮流とその位置づけについては、拙論「戦後日本における「新しいキモノ」をめぐる言説と実践」(研究ノート)、表象文化論学会ニューズレターRepre Vol.42、表象文化論学会、2021 年(https://www.repre.org/repre/vol42 /note/saki/)を参照されたい。
(8)田中千代「新しいきものの主張」『美しいキモノ』第3 集、婦人画報社、1954 年、142 頁。

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