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【リレーコラム】「新しい身体」をつくりだすこと——近代日本における着物の改良をめぐって(鈴木彩希)

PROFILE|プロフィール
鈴木彩希
鈴木彩希

神戸大学大学院人間発達環境学研究科博士課程後期課程。専門は日本ファッション史、ファッション文化論。主な論文に「戦後日本における着物の改良をめぐる流行創出の試み——田中千代の「ニュー・きもの」を中心に」『服飾美学』66号(2020)、「戦後における着物の改良と「新しいキモノ」の潮流——雑誌『美しいキモノ』の分析から」『デザイン理論』80号(2022)など。ファッションの批評誌『vanitas』(アダチプレス)編集補助を務める。
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私は、今年で82歳を迎えた祖母とともに暮らしている。彼女は着飾ることが大好きで、洋服はもっぱら自分と同世代のファッション・デザイナーたちが手がけたものを着る。一方で祖母は、着物もたくさん桐箪笥にしまい込んでいる。時にはお気に入りの一枚をひっぱりだし、器用に着付けて出かけていく。
太平洋戦争の勃発間近に生まれた祖母は、日常的に着物を身につけていた世代ではない。それでも彼女は、人々の装いが着物から洋服へと徐々に変わる様を目撃してきたのだろう。「着物は動きにくいけど、昔の人はいつも着物だったから」と、その不便な身体を手放さない。
日本は、洋服を「受け容れた」特殊な衣事情を持つが、その受容は簡単に成し遂げられるものではなかった。井上雅人が説明するように、女性の洋装化とは前近代的な「動きづらい古い身体」を捨て去ることであり、その後には「新しい身体」が用意されなければならなかった (1)。その「新しい身体」の形成は—ちょうど着物を手放さない祖母のように—洋服と着物のはざまでゆらぎながら、洋装化の過程において幾度となく試みられる。
このコラムでは、近代日本の人々が「新しい身体」を形成しようと格闘してきた痕跡として、「着物の改良」という一時期の潮流を紹介したい。

活動的な身体を目指して

太平洋戦争が始まる少し前の1940年に「大日本国民服(以下、国民服)」という衣服が制定された。これは軍服としての性格を持ちながら、作業服としての役割を果たし、宮中にも参内できるような特殊な衣服であったという。
国民服は、はっきりと軍服とは明記されなかったものの、その目的は軍服を民間に貯蔵し、軍事的な資源を確保することであった。そうした「国民服」を補完する衣服として1942年に制定されたものが、女性用の「婦人標準服(以下、標準服)」である(2)
第二次世界大戦における総動員体制は、国民を軍人化することを目的としていた。そのような体制のもと、女性の身体には「より機械論的な合理性(3)」が求められることになったのである。そうして用意された身体観によって女性たちは活動的な衣服を追求することになる。その渦中にあった衣服が標準服であった。
しかし、女性の衣服をいかに合理化するかという議論については、その制定が決定する以前より白熱していたのだ。
例えば1937年8月30日付の朝日新聞には、「廃物衣装に一工夫—作るは易く活動にも便利」という見出しで、着物を改良してツーピースの衣服を制作する試みが掲載されている【図1】。この衣服は「三重奏(トリオ)」と名付けられ、考案者には「蜂須賀女史」とある。考案者の詳細についてはこれ以上の記載がないのでわからないが、おそらく徳川慶喜の孫で侯爵・蜂須賀正韶の娘である蜂須賀年子のことだろう。
彼女は、蜂須賀ホームスパン研究所を設立し、岡登貞治と共編で『手芸の事典』(1964年、東京堂出版)を刊行するなど、手芸に関する活動を行っていた(4)。紙面を読むと、二反の着物を使用して上衣と下衣二着の衣服と帯を新たに作るという。また「非常時的更生を計られては如何でせうか」という記述からは、これが総動員体制を意識して提案された衣服だということは想像に難くない。要するに、資源の節約と動きやすさという合理性を叶えた衣服がこの「三重奏」だということだ。
【図1】『朝日新聞』1937年8月20日朝刊10頁。
【図1】『朝日新聞』1937年8月20日朝刊10頁。
さらに、下部にある説明をみてみよう。「下身頃は(…)謂はゞスカートの前を割いた形になるわけです」という記載がある。スカートという洋服を意識させながらも、それ以上に動きやすい衣服であるといわんばかりの表現で、少しずつ古い身体を脱ぎ捨て、新しい身体を獲得しようと提案をするのだ。そしてそれは、家にある着物を使って誰でも簡単に行うことができるという。
「三重奏」の「ツーピース」という形態は、実は標準服にも採用されていた(5)。資源の確保と「日本的」であることが同時に目指されていた標準服にとっては、着物の形を保持しつつ、従来の着物よりも活動性のあるこの形態は都合がよかったのだろう。
しかし、標準服という日本独自の衣服をつくりだし定着させる試みは失敗に終わった。結果的にはモンペというズボン式の衣服が女性たちの口コミによって拡がり、「からだを動かす活動のためのまちがいなく日本原産のモード(6)」となっていったのだ。
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