2022.09.26

【リレーコラム】科学者が白衣を着たとき――『デッドマン・ワンダーランド』と『魍魎の匣』をめぐって(西貝怜)

PROFILE|プロフィール
西貝怜
西貝怜

目白大学社会学部・中央学院大学法学部非常勤講師。現在の専攻は生命倫理学、現代文学・文化研究。過去の専攻は行動生態学。共著に『東日本大震災後文学論』(南雲堂、2017年)など。論文に「記憶の選択的消去の倫理的問題を記憶再生技術とともに考える―湯浅政明監督『カイバ』の解釈から脳神経倫理へ―」(『文明研究』第36号、2018年)など。
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1.母は白衣を着ない

片岡人生・近藤一馬『デッドマン・ワンダーランド(13)』に収められている「54 The shut-up reason」では、以下のような言葉が出てくる。

…五十嵐さん/亡くなった被験者に毎年花を届けてましたよね…/(中略)気づいてないんですか?/―――それは『研究者』じゃない/『人間』のやることですよ

被験者がほぼ死んでしまうような、ナノマシンの開発にかかわる非人道的な実験。その責任者の一人である女性科学者の五十嵐は、実験の被験者を増やすためだけに子どもを産んだ。

しかし「研究にしか興味ないあの五十嵐」のはずが、子どもを可愛く思う。ただ、もう一人の実験の責任者でもある子どもの父親に「さあ腸で可愛いリボンを作ろう!」と非道なことを言われてしまう。その発言に、苦悩の表情を見せる五十嵐。この後に、以上の言葉を研究仲間の同僚に投げかけられる。

自身が犠牲にした被験者に花を奉げる。この悼むという振る舞いが、同僚に「研究者」によるものでなく「人間」のものであると指摘される。悼むということが善なのかどうなのかは判断が難しいので、ここでは置いておく。ただ、この同僚の投げかけによって五十嵐は、もともと非道なだけでなく「人間」的な部分を持っていることが指摘され、母としての徳にも目覚める。

ラスト付近の場面なのでネタバレ回避のために濁して書くが、自身の子どもを非人道的な実験から守るという至上目的のために、以降も五十嵐は「研究者」を続け、相変わらず時に他者を犠牲にするような行動もとる。しかし、自身の子どもを守りたいという母としての意志は、ただの欲求でなく善や正義といったことをなそうとするものであり、徳的であるといえよう。

犠牲者を悼む「人間」は「研究者」でないこと。この「人間」の意味はなかなかに捉えどころがない。ただ、この価値観を意識しながらさらに作品を読み進めることで、五十嵐が研究のために子どもを産んだだけの「研究者」から徳のある母へ目覚めたことに気付けた。

以上は白衣の着脱に対応している。研究中の五十嵐は白衣を着ている。しかし、母として振舞おうとするときは、私服である。五十嵐にとって母と「研究者」であることが別のものになったと、白衣を通じて対比的に描かれている。そのためにこの場面以降、白衣を着ながらも母として振舞わなくてはならなくなった五十嵐は大きな葛藤を抱えることになる。

2.科学者は白衣を着ている限り夢を語ってはいけない

『デッドマン・ワンダーランド』を全巻読み終えて、私はすぐに京極夏彦『魍魎の匣』(講談社文庫版、1999年、初版は1995年)を読み直したことをよく覚えている。以下の言葉を連想したからだ。

「あなたは科学者でしょう。僕は科学者としての美馬坂幸四郎は評価するが、伝道師としての美馬坂幸四郎は評価できない。科学は技術であり、理論であって本質ではない。科学者が幸福を語る時は、科学者の貌をしていてはならないのです。至福の千年王国などと云う科白は――あなたが口にしていい言葉ではない」

美馬坂という科学者は、「脳を除く総ての部分を機械に取り替えて、永遠に生き永らえる」研究を行っており、その完成によって「至福の千年王国」を目指していると、陰陽師の中善寺に述べる。そして中善寺からの返答が以上の言葉である。

中善寺は、「科学者」と「伝道師」が分けられるべきだと強く主張している。その主張はシンプルで分かりやすい。研究活動を行い、科学的成果を生み出す科学者として美馬坂は評価できる。ただ、科学の価値を伝える者として美馬坂は評価できない。幸福などの価値は、科学者とは別の顔で考え伝えなければならない、ということである。

さらに二人の舌戦は続くが、その様子は象徴的に「黒衣の陰陽師は白衣の科学者に向き直る」と書かれている。ネタバレを避けるためにここでも濁して書くが、白衣を着たままの美馬坂が愛を語ったとき、作中の事件は美馬坂が「堕ちる」ことで幕を閉じることとなる。白衣を着た科学者であり続けたゆえに、終始、美馬坂は科学の価値を主張することが許されない存在となっているのである。

『デッドマン・ワンダーランド』の「研究者」も科学研究を行う者として、『魍魎の匣』と同様の意味での科学者と置き換えられる。そして、『デッドマン・ワンダーランド』では白衣の着脱を通じて、五十嵐の母としての「人間」的な部分が科学者の営みや役割の外にあると描かれていた。これは『魍魎の匣』において、白衣の「科学者」である限り科学の「伝道師」になってはならないという価値観と酷似している。

二作品に共通することは、白衣を着る科学者は研究や実験だけを行い、個人的ともいえる価値判断はするべきでないと描かれていることである。

3.矮小化された科学者と倫理

科学者が研究中や実験中にのみ白衣を着ている、と描く作品は多い。たとえばドラマ『ガリレオ』シリーズでは、事件の起こった原因を突き止めるために、探偵役の一人である物理学者の湯川が白衣を着て科学実験に勤しむ。

その実験を経て、湯川は白衣を脱いでも、科学者として様々に考え、発言をし、行動する。実験をしていないときに、研究室にいるから白衣を着ていることもある。ただ、『ガリレオ』シリーズの一つの傾向として、白衣は作業着であり、白衣を脱いでも湯川は科学者である。これは現実的な価値観であろう。

科学者が夢や希望や幸福を語ってはいけないなんてことはない。科学者が科学者の顔をして親や友人や恋人と関わってはいけないなんてことはない。白衣を着ているときのみ、研究をしているときのみ科学者であるということはない。しかし、これらの真逆の、現実的ともいえないような価値観が肯定的に描かれていたのが、『デッドマン・ワンダーランド』と『魍魎の匣』であった。

ところで『デッドマン・ワンダーランド』と『魍魎の匣』の実験や科学研究は、非倫理的、悪と描かれている。『デッドマン・ワンダーランド』はこれまで述べてきたことからも自明である。『魍魎の匣』も、美馬坂が研究のために不必要な手術を行い「必ず何らかの罪に問われる」と書かれている。さらに美馬坂は、研究の完成により「道徳も倫理も関係ない世界」に他者を引き連れて向かいたいとも述べている。

あえて科学研究という内部には事務的に関わること。そして科学研究に関わる人間的な側面は、科学研究の外に起因して発現させること。これにより科学者は、科学研究の悪を避けて科学者としても倫理的であり続けられる。これが『デッドマン・ワンダーランド』と『魍魎の匣』にともに見られる。

すなわち、白衣を用いて科学者を限定的で矮小的なものと表現することで到達できる倫理がある。これが両作品で共通して描かれているといえよう。

参考資料
片岡人生・近藤一馬「54 The shut-up reason」『デッドマン・ワンダーランド(13)』角川書店、2013年。
京極夏彦『魍魎の匣』講談社、1999年(文庫版。初版は1995年刊行)。
『ガリレオ』アミューズソフトエンタテイメント、Blu-ray BOX、2013年(2007年10月から12月にテレビ放送したいわゆるシーズン1が収められている)。

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