2022.12.19

【リレーコラム】ファッション研究者、就活の服装に悩む(五十棲亘)

PROFILE|プロフィール
五十棲亘
五十棲亘

京都服飾文化研究財団 アシスタント・キュレーター。専門はファッション文化論、表象文化論。とりわけ戦後日本におけるファッションデザインに対する批評の研究。主な論考に「Y2Kは現代語か─ファッションリバイバルとアーカイブファッションの身体」『ユリイカ 2022年8月号 特集=現代語の世界』(青土社)、共著に『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ 私と社会と衣服の関係』(フィルムアート社)がある。
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ファッション研究者として、就職活動という事象に関心をもってきた方だと思う。画一的な服装や髪型や髪色、近年は女性のみならず男性においても「清潔感」の惹句とともに推奨される化粧。あるいは、着席の仕方やおじぎ等の振る舞い、あるいは慇懃無礼といえるほどの丁寧語などなど。とりわけ、過度のハイヒール着用や選考におけるルッキズムといった近年のトピックは(1)、ファッション研究の観点からも看過することはできない。 

このように、メディアでは何らかの形で装いや振る舞いの視点から就職活動への意見が日常的に交わされる。そして、就職活動とファッションの関係性において、スーツに対する服装の規範は私自身も多くのことを考えさせられた問題だ。

スーツは、服飾史やファッション研究において極めて重要な研究対象である。なぜなら、スーツの歴史は単なる衣服の形態の変遷だけでなく、近代化の過程とともにスーツに付与されてきた様々なアイデンティティをめぐる歴史でもあるからだ(2)

スーツとは、ユニフォームとして何らかの属性に押し込めようとする運動と、そこから抵抗するように生ずる差異化の運動が拮抗し合う言説の構築物である。そして、田中里尚が『リクルートスーツの社会史』で丹念に分析しているように、そうした言説の構築物としてのスーツの側面が明らかになる事例が就職活動におけるリクルートスーツの問題である(3)

「日本的無個性」や「同調圧力の強い日本の社会」の象徴とも言われるリクルートスーツであるが(4)、日本における「背広」受容や就職活動に求められる服装の歴史性、ジェンダーによって異なるスーツの位置付け、メディアでの表象等、それらは簡単に良し悪しの対立では語り得ない重層性を持つ。ファッション研究が「装い」や「振る舞い」の問題を考究するのであれば、リクルートスーツという卑近ゆえに見落としそうになる対象は、まさに社会の鏡であるファッションそのものである。

さて、かくいう私も昨年人生で初めての就職活動を経験した。友人たちから何となくその過程を見聞きしていたものの、いざ自分の番になると思っていた以上に知らないことが多い。応募書類の書き方はもちろん、SPIの対策や選考時課題への対応の仕方など、あまりにも調べないといけないことばかりで驚いた。研究職の公募だったので尚更である。

そして非常に困ったことが服装。「黒のスーツ」であれば数着持っていたが、ジャケットが極端にオーバーサイズであったりズタボロに裁ち切られていたり、ネクタイが見えないほどにラペルが詰めて仕立てられていたり、セットアップの下がショートパンツやスカートであったり...…。もはや「私服」としてさえ着る場面の少ないものばかりだった。

また、かろうじてシャツは家にあったもののネクタイ、靴、ソックス、バッグが家のなかに見当たらない。いや、あるにはある。だが、「就職活動にふさわしいと思わしきもの」を悉く持っていなかったのだ。これは大学院に進学して研究職を志したことを含め、私が「リクスー」を着る瞬間を避けてきた証左だ。

ただ、アカデミアにはまったく服装の規範がないかといわれるとそうではない。うっすらとではあるが確かにそれらしきものが存在している。修士や博士の大学院入試、修士論文の審査会、学会発表の場では必ずスーツを着ている人はいた。実際、アカデミアにおけるスーツ着用の規範性については、ジェンダー研究の観点から女性研究者の服装の選択とアカデミアの構造的な抑圧との関係性に対する問題提起と議論が確かに存在している(5)

つまり、ここ数年の私がアカデミアで「まともなスーツ」を着ることなくやり過ごすことができたのは、たまたまどうにかなった(と思い込んでいる)だけのことである。

しかし、就職活動ともなると話は変わる。研究職以外の職種で採用を目指す他の学生と同じように私も切実な思いで選考に臨む。ましてや、少なくない日本の大学院生が日々「博士課程に進学すると就職できない」と不安を煽られながら研究を続けている。そんな悲観的な状況で数年過ごしたからこそ、なおさら「服装が原因で就職の機会を逃すわけにはいかない」。そんなことを思ったのである。

そして、恥ずかしながら「研究職 就活 服装」とグーグルで検索をかけてみた。スーツやネクタイ、靴の正しい色や柄や形、その選び方や着方。こうした就活の際に求められる「身だしなみ」や「第一印象は見た目で決まる」という服装の規範。これらは、研究職の就活においても例外ではなかったのだ。

だが、いくら調べてみても私が求める問いへの「最適解」はヒットしない。なぜなら、採用面接の面接官、つまり現在の同僚は私と同じくファッションや服飾品の研究を行う研究者であったからだ。

この春から私は京都服飾文化研究財団(以下: KCI)という、服飾品を収集・保存・研究・公開する研究機関で働いている。KCIでは個々の服飾品への研究はもちろん、研究誌や広報誌の編集、教育普及としての大学での講義等、日々様々な業務を行わなければならない。

そのなかでも最も大きな業務がKCIの収蔵品を用いた展覧会企画。1978年に設立されたKCIでは、おおよそ5年に1度の頻度でこれまで特別展を行ってきた。そして、直近の2019年から2021年にかけて開催された特別展のタイトルは『ドレス・コード? 着る人たちのゲーム』。本展では、「時代や地域、社会階層における文化や慣習と結びついたさまざまなルールや規範」としての「ドレス・コード」が13のキーワードとともに例示された(6)

そして、13のキーワード内の「組織のルールを守らなければならない?」と題されたセクションでは、スーツを取り巻く規範性への疑問がその実例とともに展示される。すなわち、面接官たちは「スーツのドレス・コード」という問題を熟知している研究者だったのだ。

ならば、ファッションを日々研究する人びとは、未来の同僚を決める就職選考の「ドレス・コード」をいかに捉えるのか? それは人事業務にとって重要なのか? それとも些末なことなのか? このような悩む必要があるのかどうかわからないことが頭を逡巡する。

さらに KCIは、1978年に株式会社ワコールが企業メセナの目的として設立した公益財団法人である。それゆえ民間企業と研究機関の双方の特色を併せ持つ性質は、就活の服装規範に対する私の認識をよりいっそう複雑なものにさせた。

 さて、悩んだ挙句どうなったのか。選考当日は紺色のウールチェックのジャケットとカーゴパンツのような大きなポケットがついたパンツのセットアップで臨んだ。また、唯一家にあった赤色のネクタイは裏を返すと「Gryffindor」の文字が書かれていた(家族がかつてUSJで買ってきたお土産だ)。

そして最後まで買うか悩んだのはバッグ。就活バッグは規範的な目的のためだけに選ばれるのではない。A4の書類が無駄なく入り、他の候補者とのわずかな空間に自立する機能性も踏まえて採用されている。こうした他の候補者への「配慮」も就活においては重要な観点かもしれない。

だが、最終面接の前日に訪れた「驚安の殿堂」ことドン・キホーテで就活バッグを前に立ち竦んでしまった。大量に陳列された就活バッグという名の儀礼の塊。1,980円の値札。この素敵な光景をボードリヤールにも見せてあげたい。「どうせ一度で使わなくなるなら極力安くで済ませたい」と亡霊の声が聞こえてきそうな売り場で悶々としているうちに、結局何も買わずに帰ってきてしまった。

結果的にリクスーをはじめ諸々の必要なものを揃え、「就活する私」を徹底することはできなかった。たかが1,980円のために最終面接でのリスクを背負うのかと、あなたは笑うかもしれない。実際、多くの就活をする学生もコスプレ感覚で楽しんでいるのだろう。

しかし、ファッションはファッション。レジに1,980円のカバンをもっていくのをどうしても躊躇ってしまったのだ。ただ、ジャケットらしきものとネクタイらしきものは身につけて面接に挑んだように、就活する人間を縛る服装規範には十分すぎるほど遵守していた。むしろ笑われることがあるとすれば、抵抗するわりに「スーツ」の形式がそれほどまでに大事なのかということかもしれない。

このように、ファッション研究者である私が就活の服装規範に対峙したとき、もはや着慣れたふだん着で「私らしい私」をアピールした方がマシだったのでは?と思わなくもない何とも中途半端な紛い物が誕生したのである。

ここまで根気強く読んでいただいた方にはお分かりのように、このエッセイは就活という特殊な状況下において、これまで培ってきた研究者としての自分の立場や意見が突然わからなくなってしまった人間の「隙自語」だ。では、この場をお借りしてまでなぜ自分語りをしたのか。

それはかつての私が (ファッション)研究者になることを、「ファッションのことではこの先悩まない人」になることだと愚かにも思っていたからだ。確かに、多くの人びとや文献との出会いは私の世界を豊かにする財産であることに変わりはない。ただ、それは瞬時に悩みや疑問への「最適解」が出せることを意味しない。

ファッションを学ぶことは、ファッションとともに生きる人間の複数性を知ることでもある。そして、ファッションが何らかの形で自己の問題として顕在化したとき、立場や意見の複数性がかえって思考のノイズにもなる。

「研究をする私」というのはあくまでもひとつのアイデンティティ。家族といるときの私。友人といるときの私。趣味に没頭する私。働く私。「研究をする私」の立場で考えたことや意見が「就活をする私」との間で折り合いがつかなくなることは大いにありうる。たとえ、スーツに対する規範が「言説による構築物」だと頭では分かっていても。

普段「ファッション研究は社会のどのような役に立つのか」と周囲の人間に尋ねられることがある。もし、その「役立つ研究」が何かファッションへの疑問に対する「最適解」を出すことを指すのならば、それは私個人の力では果たすことはできないかもしれない。

ただ、ファッションはときにそんな「私」を複数に引き裂く。そして私はそういう「ファッション」を研究しているのだと改めて思い知った。

(1)ファッション研究の観点からいかにルッキズムという問題へとアプローチしうるかに関しては、蘆田裕史による「ルッキズム」(『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ 私と社会と衣服の関係』フィルムアート社、2022年、136-142頁)を参照されたい。 また、制服を含めたドレスコードという問題の条件、役割、解釈については赤阪辰太郎による「ドレスコード」(同上、162-167頁)を参照。
(2)「スーツ」に関する研究書は数多あるが、美術史家のアン・ホランダーによる『性とスーツ 現代衣服が形づくられるまで』(中野香織訳、白水社、1997年)は、「なぜスーツという衣服の形態は近代を通じて大きな変化を遂げることはなかったのか」を考える上での必読文献であろう。
(3)田中里尚『リクルートスーツの社会史』青土社、2019年。
(4)同上、8頁。
(5)Donaghue, Ngaire (2018) ‘Seriously Stylish: Academic Femininities and the Politics of Feminism and Fashion in Academia’, Aesthetic Labour: Rethinking Beauty Politics in Neoliberalism, pp.231-246.
(6)牧口千夏・石関亮・小形道正編『ドレス・コード?1着る人たちのゲーム』京都服飾文化研究財団発行、2019年、17頁。

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