大阪大学人間科学研究科助教。博士(人間科学)。専門はフランス哲学、現象学。論文に「前期サルトルにおける他者の出現」(『現象学年報』、2018年)、訳書にマルク・リシール&サシャ・カールソン『マルク・リシール現象学入門』(共訳、ナカニシヤ出版、2020年)。
ファッションが私たちの心を動かすのは、うつろいやすく不定形な「今をとらえようとする心」に形を与え、情動をイメージやそこに込めたメッセージなど私たちのもとに「あらわれるもの」へと巧みにすり替えてくれるからではないか。Pradaの2022年春夏メンズコレクションの映像では、迷路のような長いトンネルの先に真っ青なビーチが用意されていた(1)。モデルたちはハットやサングラスを身につけ、幾何学模様を組み合わせたタンクトップや、ボタニカル柄のフーディに身を包み、トンネルを抜けると革靴をはいたまま浜辺にくり出した。ステイホームの閉塞感からの解放を先どりして示したイメージに「この光景を待っていた」と思わずつぶやきたくなった。
アイテムとその意匠、人びとの着こなし、流行現象といったあらゆる水準で(2)、ファッションは、私たちの今がどのような姿形をしているかをありありと示している。しばしば繰り出される「今っぽい」という判断は、目の前の対象があらかじめ心のうちに抱いていた「今っぽさ」と合致したときではなく、与えられたイメージを前にして私たちの心が収まりどころを見つけたとき不意に訪れるのだ。
かつては不可視化されていた「あらわれ」を支える複合的な構造のありようさえも、少しずつ多くの人びとの知るところとなりつつある。「サステナブル・ファッション」という理念のもとで、企画、製造、流通、広報、販売など多様なセクションの環境負荷や労働条件が測定されるべき対象として捉えられ、その範囲は広がりつつある。消費者についても、購入のあり方や再利用、廃棄に至るまでのプロセスが問いただされる。
また、これまでごく一部しか、あるいは理想化された形でしか見ることができなかった市井の人びとの装いも、SNSの発展によって格段に見えやすくなった。
ひとことで言えば、ファッションにまつわる「あらわれ」の領域は日に日に拡がっている。
しかし、私がここで考えたいのは拡大する「あらわれ」の領域のことではないし、それを支える構造のことでもない。そうではなく、押入れの奥で、店頭出し作業が行われるその傍らで、古着倉庫のベールのなかで、コレクターの秘密のクローゼットのなかで、ハッシュタグ文化の外のさらに外で、見えているのに気づかれないまま堆積する無数のストックのことを考えたいのだ。
見えるはずなのに目につかない、隠されていないのに誰の目にもふれないストック。ファッションは自ら生み出したはずのものから、何らかの理由で目を背けている。では、この光の当たりにくい領域をファッションへと結びつける回路はあるのだろうか。
まず指摘したいのは、この領域にはおそらく膨大な数のものがある、ということだ。環境省HPによれば、年間平均で1人あたりの衣服の購入枚数は18枚、手放す枚数は12枚、1年間着ていない服は25枚だという(3)。その上に、1年以内には着ているが今日は着ていない――明日着るかもしれないし、着ないかもしれない――服が加わる。まだ捨てていない/捨てられない服、ヤフオクやメルカリなどで出品しているが売れていないから家にあるような服は、着用と廃棄のはざまで漂っている。それが、人の数だけある。
廃棄の視点からいえば、焼却されたり、埋め立てられたり、あるいは修理されたりすることを通じて目にとまる服はごく一部だ。多くの衣服は手放されたあとで再利用されるのを待っていたり、焼却・埋め立て処理を待っていたりする。
製造業者がなんらかの事情で抱えてしまった在庫、店舗のバックヤードにあるストック、販売期間を過ぎ、リユース業者に引き取られた衣服など、売る側にとっての堆積物もまた存在する。
これらはファッション産業が生み出したものであり、おそらくかなりのボリュームがある。しかし、「在庫問題の解決」という業界内部での文脈や、「断捨離」の対象という否定的な文脈以外で積極的に語られることは少ない。華やかなファッションの空間、あるいは、批判にさらされつつも改善への道を探っている産業としてのファッションの「見える化」された空間の外部で、あるいはすぐ隣で、ひっそりと、膨大な堆積物が安らいでいる。「あらわれ」とそれを成り立たせる構造のあいだで、それらはただそこにあり、私たちの現実をともに構成している。この領域をどのように受け止め、ファッションへと接続できるだろうか。ファッションが私たちに今を教えてくれるものであるとすれば、共に今を形作っている余白や背景にも目を向けることは行われてよいはずだ。
ここで、この領域を現代美術家の大竹伸朗の言葉を借りて「既にそこにあるもの」と名指してみよう(4)。「既に」という言葉のなかには、「現にいまそれが在ること」と、それがこれまで経てきた過去から今に至るまでの時間が同時に含意されている。いうならば、衣服はマテリアルでありながら、その存在そのものが歴史であり、記憶である。
そして、この言葉には「層」のようなあり方もまた含意されている。原料の加工、織りや染色、裁断、縫製など実践の積み重ねによって、衣服ははじめて物質性をもってあらわれる。時間のなかでの実践の反復が、衣服のマテリアリティを形作るのだ。そして、衣服は皮膚とふれあい、洗われ、曲がりくねり、すり減り、干され、畳まれて、ここにとどまる。「既にそこにあるもの」は目に留まらないかぎり無意味だが、それは海辺の小石や街路樹の根のように非情な無意味ではない。大竹がしばしば創作に用いた古い雑誌の切り抜きのように、いまや読みとれなくなった意味や、はじめから辿ることができない意味を余白として残すがゆえに無意味なのであり、素っ気なく意味を忘れている。
「既にそこにあるもの」として堆積するストックを捉えるということは、物質性を時間性から/時間性として読むことにほかならない。「既にそこにある」という状態は、かつて人類学者のイゴール・コピトフが「モノの文化的履歴」と呼んだ、事物が時間的プロセスのなかで経めぐる多様なフェーズの一部として考えることができるかもしれない(5)。ただし、コピトフがモノの履歴を主として「商品化」と「かけがえのないものになること」のあいだの往還から記述したのに対して、「既にそこにあるもの」は物語ることができる履歴の外の、曖昧な、あるいは撹乱された時間性とかかわる。無意味である以上、履歴は記録されつくすことができないし、モノには判別不可能な余白が残りつづける。そして、私たちの今は、こうした曖昧な歴史的存在者たちと共存する不揃いな先端としてある。
ストックをひとつの「問題」と捉えるなら、道筋は既に示されている。そこに時間性をめぐる問いはないし、今を思考するためのヒントもないだろう。作らないか、適切に処理することで、ボリュームをコントロールし最適化すればよい。
しかし、私たちの物質文化に贅肉のようなしかたで伴われているこの領域を「思考の対象」とするならどうか。それも、言葉で論じることによってではなく、まさに形を作ることを通じて思考するなら。そして、それを通じて私たちの今を捉え直すなら。贅肉も含めて私の身体なのだと言い張ってみるなら。
いま、一部のデザイナーたちはデザインを通じて、さまざまな方向から「既にそこにあるもの」への感性を呼びさます批評的なクリエイションを行っている(6)。
2021年のメットガラでロードの衣装を担当したBodeのチームは、ベースとなるツーピースに年代がバラバラなアンティークやヴィンテージの銅貨やカボション、セルロイドのチャーム、時間の止まった腕時計などを「数え切れないほどの時間をかけて」縫いつけた。By Walidは18世紀からベル・エポック頃までのさまざまなファブリックを収集し、刺し子とパッチワークを駆使して一着の衣服を作り上げる。大阪の古着屋・セレクトショップ11747391はかつて、一部のラックで古着とデザイナーズブランドの新品を非常に気づきづらい形でミックスして陳列していた。客は商品を選ぶという行為のなかで、シーズンや年代という既存の枠組みを解きほぐしながら、いま目の前にある服と向き合うことができた。Peterson Stoopは加水分解したスニーカーというマス・プロダクションの残滓ともいえるものをリペアし、革靴に対するような底づけを行うことによって、新たなデザインの靴として発表する(7)。
これらの取り組みがアップサイクルを行っているからとか、「新しい=善」とされる「モード」の世界に疑問を投げかけているからよいのだといいたいのではない。実際に多くの在庫を廃棄から救ったか、という評価軸でも捉えていない(それはもっと大きな規模で取り組まれるべきだ)。
そうではなく、目に見えるファッションの場所のそばにたたずむモノの堆積へと想像力を向け、ファッションをとりまく曖昧な歴史性を、その曖昧さを残したままで作品化しているように読むことができるからこそ面白いのだといいたい。
これらの試みは、デザインを通じて不可視化されていたものの文化(衣服が製造された時代の文化、収納、保存、管理の文化、「選ばれない」ことが明るみにだす消費の文化、etc.)や、私たちの個別的な記憶に呼びかけるポテンシャルをもっている。それだけでなく、マテリアルのもつ本質的に曖昧な時間性にまで目を向けさせる。ここで目を向けられる過去はけっして明瞭で単線的な「正史」ではなく、複数の異なる文脈へと接続される可能性をもっている。
こうしてデザインされたアイテムは、その試みを知るだけで、クローゼットとの向き合い方を変える可能性がある(と同時に、何も変えずたんに消費される可能性もまたある)。ここには、作ることで思考し、変えていくような実践として読まれる可能性があり、デザインと受け手のあいだにはチャンスがある。これだけがデザインではないのはたしかだ。しかし、ファッションにまつわる歴史を批評的に表現し、私たちのまなざしを更新するよう促すデザインは、おそらくいま求められるひとつの方向だと思う。
先に挙げたエッセイ集のなかで大竹は「『既にそこにあるもの』との共同作業」という印象的な言葉を残している(8)。
(1) https://www.youtube.com/watch?v=sxK9_kotE1Y(2021/09/18 閲覧)
(2)蘆田裕史が『言葉と衣服』(アダチプレス、2021年)でファッションを「アイテム」、「服装」、「社会現象」の3つの様相から定義したことを踏まえている。
(3)https://www.env.go.jp/policy/sustainable_fashion/ (2021/09/18閲覧)
(4)大竹伸朗『既にそこにあるもの』(ちくま文庫、2005年)
(5)Igor Kopytoff, “The cultural biography of things: commoditization as process” in The social life of things: Commodities in cultural perspective, edited by Arjun Appadurai, Cambridge University Press, 1986. コピトフの議論に対して、モノの履歴を強調することで、それが存在する社会的・経済的・文化的構造への批判的な視座をもちにくくなるという批判がなされることがある。私は、モノのモノ性の構成にとって必要な実践の反復を指摘することで、モノとそれを存在させる構造を結びつける(古典的とはいえ確実な)乗り越え方があるように思う。
(6)ここで私が述べていることは「クリティカル・デザイン」と呼ばれる一群の実践と響きあうかもしれない(マット・マルパス『クリティカル・デザインとはなにか? 問いと物語を構築するためのデザイン理論入門』(水野大二郎・太田知也監訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2019年)を参照)。しかし、意図されず、あるいはさりげない形でなされるデザインを通じた批評的実践をそれとして「読む」ためには、デザインが批評として機能する文脈も含めて言葉に移すような(メタ)批評もまた必要とされる場面があると思われる。
(7)ここで取りあげた事例は多くが既存の(大量)生産品を基礎として生産された「小生産物」というカテゴリに入るが(たとえば湖中真哉「小生産物(商品)の繊細なグローバリゼーション」in『躍動する小生産物』(小川了編、弘文堂、2007年)の理論枠組みを応用して分析可能だろう)、それらの意味を解明するためには、デザインのプロセスがもつ特異なはたらきや流通の枠組みをファッション・システムとの関係から詳細に分析する必要がある。また、マス・プロダクションのただなかで批評的な生産を行うことも可能だろう。
(8)前掲書、p. 431.