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【リレーコラム】少年が「ギャル」になった日――小さな「ドラァグ」に関する私的な思索(宮下大輝)

PROFILE|プロフィール
宮下大輝
宮下大輝

長野県生まれ。専門は異文化間教育。社会学や人類学の視点から、外国につながる人々をめぐる学校現場の調査研究を行うとともに、自らも教育支援活動に携わる。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程在籍。論文に「移民1.5世代の母語・母文化を活用した教育実践に関する考察」『人間と社会の探究』93号(2022年)。ギタリストとしても活動中。

“ファッション”をキーワードに、自身の子ども時代の記憶を掘りかえしていると、こんな光景に出合う。
中学校2年生のときだっただろうか。当時通っていた学習塾の恒例行事で、地元の夏祭りに参加することになった。老若男女、地域から多数の有志団体が集まり、音楽に合わせて踊りながら一斉に市街を行進するのである。当日、少年はある事に胸を高鳴らせていた――はじめてのギャルメイク体験が彼を待っていたのだ!
まだ日が暮れる前に公園に集合し、ベンチに座り、先輩2人がかりで施術が開始される。アイラインにマスカラ、ラメ入りのアイシャドウといった見慣れぬコスメが次々に自分の顔に塗布されていく。仕上げに金髪カールのウィッグを被れば、思い描いていたピチピチの「ギャル」の完成である。そんな特別な装いも相まって、その後の祭りが飛び切り心躍るものであったことは言うまでもない。
あの日の体験が私にもたらした、あの強烈な高揚感はいったい何であったのだろうか。
安直に考えて、私は、世間一般に「ギャル」と見なされている人びとのイメージを真似た「仮装」ないしは「コスプレ」をしていたといえるだろうし、当時ほとんどの場で自他ともに「男子」として認識していた(されていた)立場からすれば、「女装」を楽しんでいた、ともいえるだろう。社会学徒ではあるが、これまでにファッションやメイクアップといったテーマに注目したことがなかったので、何か参考になるような読み物はないだろうかと探っていたところ、『コスプレする社会――サブカルチャーの身体文化』という論集が2009年に刊行されていた。目次を開いて見ると、なるほど、いくつか関連しそうな言葉が点在している。以下では、同書の内容に部分的に依拠しつつ、私の1日ギャル体験の深層に迫ってみたい。
文化研究者の成実弘至は、かつてロラン・バルトがファッションを「『自分』という問いとの戯れ」であると論じたことについて触れながら、仮装という表現行為を自己探求やアイデンティティ表現の手段として捉える。すなわち、人は異質な他者への同一化願望などを内包しながら、誰かを模倣した装いを通じて自己と他者の差異を再認識し、その残余の中に新しい自己を見いだすのだという。そのプロセスにおいて「他者になること」と「自分になること」は拮抗し、同時並行的に行われる。
トランスジェンダー論が専門の三橋順子は、女装に興じる人びとがその行為に至る理由の類型化を試みている。ここでは4つのタイプ――フェティシズム型、ナルシズム型、女装ゲイ型、性別違和感型――を挙げており、当事者としての立場から、自身を「性別違和感型7割、ナルシズム型3割の混合タイプ」と自己分析した上で、女装を自己表現や「もう一人の自分」を解放する実践として位置づけている。
一方、より女性性を誇張した表現として、ドラァグクイーンを想起する人も多いだろう。服飾文化論の専門家である百々徹は、日本のアンダーグラウンド界を代表するパフォーマーであるシモーヌ深雪へのインタビューから、ドラァグクイーンを「何者かであらねばならない」日常から逃れようとするための運動として捉える。すなわち、彼女たちが帯びる「これ見よがしの過剰性」は、女性になることを志向しているのではなく、女性らしさというステレオタイプ、換言すれば、制度としての女性らしい装いや所作をあえて最大限に誇張することによって、自分が何者であるかを「意味づけ」ようとする社会的作用からの逃亡を図るものであると論じる。
以上のような議論を踏まえて、あらためて中学生の頃の私に思いを巡らせてみる。
10代中頃、いわゆる自己形成期において、他の人と比較しながら「自分とは何か」という問題に直面するのは珍しいことではない。成実による「他者になることで自分になる」という観点からは、私が物心ついたときから、ファッションを「気になるもの」「憧れのもの」にアプローチするための手段として認識していたことに気づかされる。仮装のようなものに限らず、テレビで見たあの人、イケてる先輩、憧れのミュージシャン等々、さまざまな他者に近づきたいというおもいが、自らの装いに具現化されていた。ではなぜ、人前で積極的にギャルに扮すること、つまり、「女」あるいは「異性」を「装」うことが、私にとって格別の、甘美な意味を持ちえたのだろうか。
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