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2023.05.12

【リレーコラム】少年が「ギャル」になった日――小さな「ドラァグ」に関する私的な思索(宮下大輝)

PROFILE|プロフィール
宮下大輝
宮下大輝

長野県生まれ。専門は異文化間教育。社会学や人類学の視点から、外国につながる人々をめぐる学校現場の調査研究を行うとともに、自らも教育支援活動に携わる。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程在籍。論文に「移民1.5世代の母語・母文化を活用した教育実践に関する考察」『人間と社会の探究』93号(2022年)。ギタリストとしても活動中。

“ファッション”をキーワードに、自身の子ども時代の記憶を掘りかえしていると、こんな光景に出合う。

中学校2年生のときだっただろうか。当時通っていた学習塾の恒例行事で、地元の夏祭りに参加することになった。老若男女、地域から多数の有志団体が集まり、音楽に合わせて踊りながら一斉に市街を行進するのである。当日、少年はある事に胸を高鳴らせていた――はじめてのギャルメイク体験が彼を待っていたのだ!

まだ日が暮れる前に公園に集合し、ベンチに座り、先輩2人がかりで施術が開始される。アイラインにマスカラ、ラメ入りのアイシャドウといった見慣れぬコスメが次々に自分の顔に塗布されていく。仕上げに金髪カールのウィッグを被れば、思い描いていたピチピチの「ギャル」の完成である。そんな特別な装いも相まって、その後の祭りが飛び切り心躍るものであったことは言うまでもない。

あの日の体験が私にもたらした、あの強烈な高揚感はいったい何であったのだろうか。

安直に考えて、私は、世間一般に「ギャル」と見なされている人びとのイメージを真似た「仮装」ないしは「コスプレ」をしていたといえるだろうし、当時ほとんどの場で自他ともに「男子」として認識していた(されていた)立場からすれば、「女装」を楽しんでいた、ともいえるだろう。社会学徒ではあるが、これまでにファッションやメイクアップといったテーマに注目したことがなかったので、何か参考になるような読み物はないだろうかと探っていたところ、『コスプレする社会――サブカルチャーの身体文化』という論集が2009年に刊行されていた。目次を開いて見ると、なるほど、いくつか関連しそうな言葉が点在している。以下では、同書の内容に部分的に依拠しつつ、私の1日ギャル体験の深層に迫ってみたい。

文化研究者の成実弘至は、かつてロラン・バルトがファッションを「『自分』という問いとの戯れ」であると論じたことについて触れながら、仮装という表現行為を自己探求やアイデンティティ表現の手段として捉える。すなわち、人は異質な他者への同一化願望などを内包しながら、誰かを模倣した装いを通じて自己と他者の差異を再認識し、その残余の中に新しい自己を見いだすのだという。そのプロセスにおいて「他者になること」と「自分になること」は拮抗し、同時並行的に行われる。

トランスジェンダー論が専門の三橋順子は、女装に興じる人びとがその行為に至る理由の類型化を試みている。ここでは4つのタイプ――フェティシズム型、ナルシズム型、女装ゲイ型、性別違和感型――を挙げており、当事者としての立場から、自身を「性別違和感型7割、ナルシズム型3割の混合タイプ」と自己分析した上で、女装を自己表現や「もう一人の自分」を解放する実践として位置づけている。

一方、より女性性を誇張した表現として、ドラァグクイーンを想起する人も多いだろう。服飾文化論の専門家である百々徹は、日本のアンダーグラウンド界を代表するパフォーマーであるシモーヌ深雪へのインタビューから、ドラァグクイーンを「何者かであらねばならない」日常から逃れようとするための運動として捉える。すなわち、彼女たちが帯びる「これ見よがしの過剰性」は、女性になることを志向しているのではなく、女性らしさというステレオタイプ、換言すれば、制度としての女性らしい装いや所作をあえて最大限に誇張することによって、自分が何者であるかを「意味づけ」ようとする社会的作用からの逃亡を図るものであると論じる。

以上のような議論を踏まえて、あらためて中学生の頃の私に思いを巡らせてみる。

10代中頃、いわゆる自己形成期において、他の人と比較しながら「自分とは何か」という問題に直面するのは珍しいことではない。成実による「他者になることで自分になる」という観点からは、私が物心ついたときから、ファッションを「気になるもの」「憧れのもの」にアプローチするための手段として認識していたことに気づかされる。仮装のようなものに限らず、テレビで見たあの人、イケてる先輩、憧れのミュージシャン等々、さまざまな他者に近づきたいというおもいが、自らの装いに具現化されていた。ではなぜ、人前で積極的にギャルに扮すること、つまり、「女」あるいは「異性」を「装」うことが、私にとって格別の、甘美な意味を持ちえたのだろうか。

そこで、三橋の言う「解放」という表現にははっとさせられる。あの日湧き上がった高揚感は、私にとってまさに解放感と呼べるにふさわしいものであったと記憶している。その解放を、「規範からの逸脱」として考えてみたい。ここで、ちょうど小学校から中学校に上がった頃にしきりに感じていた、ある居心地の悪さについて告白しておく。これもまた思春期の経験としてごくありふれたものであろうが、日々の生活の中で異性愛への意識が盛んに表出し始めることに気が付く。当時、周囲の友人らと比べて、異性愛的な関心の芽生えが遅れているように感じていた私は、それまで気が置けない関係を築いていたはずの相手との間に距離が生まれていく感覚にうまく適応できなかった。

こうした葛藤の原因を考え始めると切がないが、つまるところ、自身の男性性を急激に意識せざるを得ない日常の中で、そのような規範から何とか脱したいという意識が、「女装」と結びついたことで解放感を得ることにつながったのではないかと思う。それは、異性愛規範の枠組みの中で競争を強いられる場、すなわち、とりわけセクシュアルな同質性へと向かわせる圧力が強い学校という社会において、少年が苦しい闘いの土俵から下りることを可能にしたのではないだろうか。

さらに、百々が描いた、「何者でもない」自分を希求するドラァグクイーンのあり方もまた、けばけばしいメイクを介した過剰な演出を通して、日常でさらされる規範からの逸脱を目指した当時の私に重なりはしないか。祭りの日、常日頃見せている自己像を揺り動かし、「何者」にも括れない自分の可能性を模索していたのだとしたら、あの1日ギャル体験は、ささやかなドラァグ(異性装)の実践であったと解釈できるかもしれない。

ここまで不慣れな題材についてつらつらと書いてきたが、実のところ、こうした他者や差異をめぐる自己探求の話は、現在の私が研究対象としている学校教育の事情とも無縁ではない。

批判的教育実践学(クリティカル・ペダゴジー)の知見によれば、学習者は、各々の文化やアイデンティティの境界枠に意識的になることで、自らのものの見方や判断の基準がいかに限定されているのかを問う姿勢が重視される。その代表論者であるヘンリー・ジルーは、階級やジェンダー、エスニシティなどによって規定された様々な考え方や視点を交換し合いながら、一人ひとりがアイデンティティの境界線を引き直していくような学びのあり方を中心に据える、「境界教育学」を提唱した。それは、学校教育の中で自明視されている「知/無知」、あるいは自然化され正常化された「主体」を再生産し続けるヘテロノーマティヴな(異性愛規範を普遍的なものとみなす考え方に基づいた)教育のあり方に再考を促す、「クィア・ペダゴジー」の理念にも通じる。

こうした視点を経由すると、異装のような行為にもある種の教育的な価値を見出すことができるかもしれない。すなわち、自己の身体を介して他者を経験する行為は、そこから得られる気持ちの昂りや、逆に逃げ出したくなるような厭わしさと向き合うことによって、自身のものの見方を見つめ直し、ひいては自己の複数性や流動性、自他の多元的な関係性をつくり出すための一助ともなるのではないだろうか。他者を纏う異装という行為は、まさにジルーが言う「差異の交換」を喚起する。

一見ただの子どもの遊びのようなものを真剣に論じてみようと書き始めたコラムであったが、何やら大げさな教育論に行き着いてしまった。

しかし亡きイタリアの社会学者アルベルト・メルッチもまた、複雑性と差異によって成り立つ不確実な世界の中で、現在地の周辺を自由自在に揺れ動くような自己のあり方を「遊び(play)」と表現した。何もあの夜の経験がその後の私の人生のあり方に決定的な影響を与えたわけではないが、2000年代半ば、ある地方都市の片隅で、周囲の環境に適応することに懸命だった少年による、切実な反抗の一端を垣間見ることができたように思う。本来なら、ひとり静かに赤面するような思い出をこうして語ってみるのも悪くはない――そんなことを思いながら筆をおく。

参考文献
Melucci, Alberto, 1996, The Playing Self: Person and Meaning in a Planetary System, Cambridge: Cambridge University Press.(新原道信・長谷川啓介・鈴木鉄忠訳,2008,『プレイング・セルフ――惑星社会における人間と意味』ハーベスト社.)
三橋順子,2009,「変容する女装文化」成実弘至編『コスプレする社会――サブカルチャーの身体文化』せりか書房,84-114.
百々徹,2009,「ドラァグクイーンというあり方――シモーヌ深雪に聞く」成実弘至編『コスプレする社会――サブカルチャーの身体文化』せりか書房,115-138.
成実弘至,2009,「仮装するアイデンティティ」成実弘至編『コスプレする社会――サブカルチャーの身体文化』せりか書房,8-23.
渡辺大輔,2019,「教育実践としてのクィア・ペダゴジーの意義」菊池夏野・堀江有里・飯野由里子編『クィア・スタディーズ1――アイデンティティ,コミュニティ,スペース』晃洋書房,134-165.

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