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【リレーコラム】毎日のリバイバル(伊澤拓人)

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PROFILE|プロフィール
伊澤 拓人(いざわ たくと)
伊澤 拓人(いざわ たくと)

1995年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程所属、国立新美術館研究補佐員。その他、デザインと言語表現の領域で多様な活動を展開するコレクティブ「pH7」に所属し、詩作や印刷物のデザインを行う。

私がよく遅刻をするのは、朝起きられないからというわけではない。むしろ自分は必要に応じて早く起きることを苦にしないし、寝坊が原因で待ち合わせに遅れたこともあまりない。ではなぜ遅刻するのかといえば、それは起きているのに家を出られないからだ。というのは、玄関を跨ぐまでにさまざまな事物(ことともの)が幾重にも私の前に立ち塞がるからで、それは今日職場に何を持っていけばいいのかわからないというパニック状態であったり、はたまた乾燥対策だ日焼け対策だとやたら手のかかる肌のコンディションであったり、そして何より、物言わぬ不気味なクローゼットなのである。
クローゼットを開けると、必ずいくらかの絶望を味わう。出発の時間は刻々と迫るのに、ジャンルによって細分化されそこかしこに畳まれたり掛けられたりしている洋服から、今日着るものをどのように選べば良いのかわからず途方にくれる。目に入る洋服たちは、それぞれ脈絡を欠いた頓珍漢な横顔を見せていて、それらから今日のためのたった一つの組み合わせを抽き出すことは、途轍も無い労苦に思える。そして、こうも言ってみたくなる。「着る服がない!」
あるのだ、目の前には十分すぎる量の服が。しかし問題は、一つ一つのピースが力を持ってこちらに訴えかけてこないことである。外国語の授業で誰も呼びかけに応じようとしない教室のように気まずくやりきれない。そのことに私は苛立ちを覚え、服側のやる気のなさを非難しようとさえする。しかし時間は待ってくれず、家を出るためにとにかく手を動かさねばならない。「最近着てないから」というつまらない理由でまずはボトムを選び、全身のフォルムをなんとなく想像しながら他を決める。家中に干してある靴下は目に入った中でもっとも色合いがましなものを選び、アクセサリをつける時間がある日は良い方だ。そしてメガネを拭いて鞄を背負って、ようやく靴のことを考え始める……。
服と同じくらい、服好きのXアカウントを眺めるのが好きで、そのクラスタに自分はコミットせずに外野から観察するという狡いことをよくやっている。服好きの中でも、自らを「おしゃれ好き」や「ファッショニスタ」とは違う「服好き」と認識するややこしい一群がいて(こうして具体的な参照もなく「一群」をおくのは良いことではないが、あくまで私の想像を多分に含んだ人格だと考えてほしい)、彼らのクリシェにこんなものがある。「職場の先輩におしゃれだねって言われて終わった」
「職場の先輩」は「幼稚園で会った保護者」でも「大学の同級生」でもなんでも良く、服好きにとって服好きとは認め難い人々が代入できる。そうした人々に「おしゃれ」と言われると何が終わってしまうのか。はっきりとわかるわけではないが(自分はそう言われたらけっこう喜んでしまうから)、共感できる部分がないわけではない。服好きは、服好きでない人におしゃれと言われてはならない。つまりリテラシーを持たない人に対して「この格好はおしゃれである」と表示してはならない。なぜかというと彼らにとっての理想は、自らの格好がおしゃれであると一切表示せずに良い服を着ることだからだ。そして自分だけには、あるいは同じレベルのリテラシーを持った人だけには、なんの変哲もない服装がパッと輝いて見える、そこに尊さを感じるのである。
逆を考えてみても良い。服好きが嫌悪する格好には2つの傾向がある。それはロゴによって服とブランドの価値を表示することと、よく街中で見かけるおしゃれっぽさを真似することだ。どちらの場合も、既存の体系で認められた価値をそのまま引き受けていて、解釈の余地が少ない。「おしゃれだね」と言われた服好きが「終わっ」てしまう理由はここにある。彼らにとって一般人からの迂闊な褒め言葉は、まさに唾棄すべき2つの浅薄さのどちらかに見えますよという、非情な宣告と等しいからである。
このように、服好きの理想が「一般的なおしゃれ」との距離によって、否定形によって測られるようなものであるとき、彼らの実践は(彼ら自身がどれだけ「ファッショニスタ」ではないと主張したとしても)紛れもなく「ファッション」だと言える。というのは、ファッション=流行は常に、そうではないものとの差に立脚する、差異化の運動だからである。そして差異化が極まれば、「そうではないもの」の方が肥大化していき、迫り来る壁のように自分自身に近づいてくる。「流行の最先端」という矛盾した表現をそのまま受け入れるとすれば、昨日の自分自身さえ今日には最先端から滑り落ちているかもしれない。服好きはもはや自分自身が着たものとの決別を日毎に迫られることになる、とは言い過ぎだが、そうした自己疎外に陥らないためにファッションは次に、自分とはなるべく対極にあるものを取り込もうとするのだ。服好きの対極にあるものとは、一般的にダサいと見なされかねないものである。このようにして彼らは、「高い(が)ユニクロ(のように何気ない服)」を買ったり、作業着や仕事靴といった用の美(という物語)を愛したりするようになる。
確かに、既存の体系では測ることのできない価値、それが価値なのかどうかも未だわからないものを、外見という一つのコミュニケーションの媒体に託して発表してみることは、魅力的な実践である。しかし私にとってどうにも乗りづらいのは、それが結局は「買うこと」に依存している点にある(自分で服を作る人を除いては)。「一般的なおしゃれ」との距離を保つための、知る人ぞ知るブランド、一般的にはおしゃれと見なされていないメーカー、といったポジションは、人々の消費行動によって決まるものだろう。ならば服好きが知識と経済力を駆使してどれだけ完璧なクローゼットを作り上げたとしても、その価値は(決しておしゃれではないものをも含めた)服をめぐる経済的循環のアレゴリーのような役割にしかならないのだ。
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