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【リレーコラム】〈わたし〉・この不思議な存在:鷲田清一ファッション論は何を示すのか(山内優佳)

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PROFILE|プロフィール
山内 優佳(やまうち ゆうか)
山内 優佳(やまうち ゆうか)

クイーンズランド大学人文社会科学部卒業後、現在は大阪大学大学院人文学研究科修士課程に在籍。専門はフェミニスト哲学とファッションスタディーズ。理想的な外見をもつ女性を手がかりにして、規範として生きることの苦しみを分析し、衣服によってそこから脱出する方法を模索している。

1.出会い

服を纏うのが好きになったのはいつからだっただろうか。服を見るのは子どものときから好きだった。色使いが素敵なコーディネートや風にたなびく真っ黒のマフラーに何度目を奪われたことだろう。だが、服を纏うことには臆病で、着こなせないからという気持ちで服を棚に戻すことも多くあった。
それは本屋に赴き、『ひとはなぜ服を着るのか』という本を何気なく買ってパラパラと捲ったときだった。

ファッションには、どこか底知れぬふまじめさ、いいかげんさがつきまとっている。くそまじめを鼻であしらうようなところがある。きまじめさへの深い不信感がある。そして奇妙にもそういう不良性が、ある種の美意識、ある種の倫理感覚と強くむすびついているところが、なんともおもしろい。ダサいという感じ、共謀してでっちあげられた秩序の固さ、ファッションはそれをもっとも嫌う。
おなじようにというべきか、あるいは逆にというべきか、ファッションという現象はだから、権威や体制や権力機構(とりわけ国家や学校)がもっとも嫌うものでもある。(…)が、体制がファッションを嫌悪するそのほんとうの理由は、それが嫌悪するそのふまじめさが、あるいは確とした根拠がないという事実が、じつは体制の根底にあるということではないだろうか。
(…)まじめを称揚する社会が、ほんとうはもっともふまじめな構造をもっていることを露出する。そしてそういうふまじめさに徹することすらしないふまじめさがある。(鷲田 2012:241-2)

そうか、ファッションとはふまじめなのか。体制や秩序には実は理由はないのではないか。そしてファッションは、秩序に根拠がないことをファッション自体の軽薄さから示すものだったのかと衝撃を受けたことを覚えている。もともとフェミニズムに関心があり、わたしたちの身振り、行為、そして何を纏うかを形作っている秩序から逃れ、生存する手段を模索していたが、その手がかりを掴んだ気がした。そして、この手がかりをもとにわたしは自分なりに服を纏うとはどのような行為かを、手探りではあるが考えて、実践している。
その実践として、実際に纏う服をだいぶ変えた。あんなに怖かったコムデギャルソンの服を着てみるようになった。というのも、同じく『ひとはなぜ服を着るのか』のコムデギャルソン論にも秩序からの脱出と抵抗の契機を見出したからである。

皺だらけ、穴あき、ほつれ、歪み、崩れ……そうした文法外し、というよりも文法破壊のなかで、川久保は服をそれが服でなくなる限界にまで引っぱっていく、とでも言えばいいのでしょうか。実際、つぎはぎだらけの服、シャツのかたちをしたスカート、腕の二倍くらいの長さの袖、裏返しの服、男女が逆になった服など、ためいきがでるほど破壊的で挑発的な服を見て、しり込みするひとも少なくありません。けれども、このような破壊と解体のはてにしみじみと漂いだす哀感、それにファンはやみつきになるようです。(…)川久保のデザインには、標準とか基準、マジョリティとか適合といった観念や、真綿のようにやんわりと包み込んでわたしたちを窒息させるようなイメージにふれれば、とにかくまっさきにそれを引き裂かずにはいられないといった意地、ないしは反射神経のようなものが充満しています。(鷲田 2012:105-106)

わたし自身を縛っている根拠のない秩序を、服を纏うことで引き裂くことができるならそうするしかない。変わった服を着ていると言われればそれまでだが、わたしはそれでも、こういう服を纏うことで生存できるようになった。
鷲田が『モードの迷宮』を書いたとき、彼の恩師はファッションについて学術的に考えるなんて世も末だなと言った。ファッションはたしかにうわべのものであり、ふまじめであり、したがってまじめに語る価値はないように思うだろう。だが、服を纏うことは、わたしにとって生存することなのだ。そして、生存するためのふまじめさを捨ててはいけないと、鷲田ファッション論は語りかけてきたのである。

2.衣服と〈わたし〉を考える

鷲田ファッション論は古典になりつつある。だが、いま読んでもわたしたちの身近にある衣服を再考するきっかけとして機能するような、大変ファッショナブルな議論を行っている。わたしが思う鷲田ファッション論の魅力は、議論全体に一貫して登場する〈わたし〉という存在の分析だ。
わたしたちは普段、〈わたし〉とはなんなのかを分かっているはずだと思っている。でも実はそうではない(cf. 鷲田 1996:167)。〈わたし〉とは、自分に一番近い存在ではない。自分の背中を考えてみよう。自分には背中があるとわかっている。だが、自分の背中は、鏡や液晶を通してしか見ることができないし、自分の手で背中を触ろうとしても、届かない部分がある。〈わたし〉が見て、触れることのできる箇所が限られているために、〈わたし〉は自分をばらばらなパーツとしてしか認識できない。言い換えれば、自分が〈わたし〉を考えるとき、それは想像上の自分でしかありえないのだ。鷲田はこれを〈像(イメージ)〉と呼ぶ。〈像〉は、ぼやぼやとした、輪郭も、境界もあいまいなものである。わたしたちは、そういう〈像〉をパッチワークのようにつなぎあわせ、ひとつの〈わたし〉にまとめようとする。「多くの布切れから一つの衣服が縫い上げられるように」(鷲田 2012:32)。だが、どのようにしてそれは可能なのだろうか。
それは自分以外、すなわち他人によってである。〈わたし〉は他人の視線を鏡とすることによってばらばらなパッチワークとなっている自分の身体を「ああ、わたしはあのひとからこう見えているのだな」と想像し、ひとつの〈わたし〉にまとめあげる。そのとき、わたしたちはダイエットやピアスを開けることで自分を加工したり、かたちを変えようとする。〈わたし〉は身体を加工したり、変換することによってはじめて生成されるのだ(cf. 鷲田 1996:121)。その契機としてあるのが他人であり、そして他人(世界)との関わりの装置としての身体の(可視的な)表面、皮膚なのである。
鷲田はこのとき、〈わたし〉を身体的な存在として捉えていることに気づくだろう。

わたしたちの身体的な存在がその可視的な表面へと凝集させられ、縮減することによって、それを表面とするひとつの〈内部〉が形成される。その表面に開陳され、そこを措いては生成の場所をもちえないはずの〈わたし〉が、あたかも表面=皮膚の内部に鎮座しているかのような錯覚が生まれる。こうして身体は〈わたし〉の外見となり、「わたしの身体(からだ)」という表現にみられるように、わたしは身体と一種の所有関係に入ることになる。(鷲田 1996:126-127)

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