2022.06.15

【リレーコラム】ヒッピーファッションを身にまとうということ(市川結城)

PROFILE|プロフィール
市川結城
市川結城

1994年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に所属。専門は、ホルクハイマーを中心とするフランクフルト学派研究。https://researchmap.jp/yuki_ichikawa

あるファッションを身にまとうとは、単に「身体」=「肉体」の上に外皮をまとわせることではない。鷲田清一が述べる通り、「第二の皮膚」をまとうことである(鷲田 2012: 25-34, 212)。これは単なる比喩ではなく、我々は自己(の身体)の諸イメージを断片的にしか獲得できず、それらを「縫い上げて」はじめて「身体」が作り上げられるのである。それを経ていない「本当の無垢な身体」は存在しない。ファッションはそのようにして我々と関係を取り結んで来た。

もっと言えばファッションとは身体の表面を変更させるだけでなく、「生存と感受性のスタイル」なのであり、それはわれわれの抱く細やかな欲望さえも垣間見えさせるものである(鷲田 2012: 252-256)。またそれは同時に、私自身の限界を超えたいという自己破壊的欲望を示すものなのである。しかも、身体や性への意識が社会において劇的に変容する中でファッションも変貌を被ってきたのであり、その最初の大変革がまさに本稿の扱うヒッピーファッションないしサイケデリクス・ファッションだったのである。

私は普段いわゆるヒッピーファッションを身にまとっている。ヒッピーファッションとは具体的に言うと長髪、ヒゲ、タイダイ染めのシャツ、ヘアバンド、ジーンズ、ピースシンボルなどを身にまとうものである。適当にインターネットで検索すれば大体わかっていただけると思う。

私がヒッピーファッションを身にまとう主な理由としては、ボディラインを隠せること、サイケトランスが好きであること、Yシャツのようにぴっちりと体にフィットするのではなく、「第二の身体」と皮膚との間にゆったりと空間をもち過ごせることなど様々だが、最も大きいのは、それが60年代的「大いなる拒絶」(H.マルクーゼ)のシンボルの一つであるところだろう。

私は普段、批判理論と呼ばれる思想家たちを中心に研究している。批判理論の中核をなす概念は「否定」である。それは現状に対する抵抗の契機を重要なものとみなしている。資本主義をはじめとする諸々の制度、すなわち我々に特定の生き方を押し付け、それへの適応を迫るシステムに対してノーを突きつけ、「自由」や「平等」といった理念の実現を目指すものこそ、批判理論の中核をなすものだろう。それをイカした仕方で実践してきたのが、ヒッピーをはじめとする60年代の運動だったし、現在に至るまでそれを引き継いで試行錯誤してきた歴史があるのだ。私は「現状否定」という共通の理念ゆえにヒッピーをリスペクトした格好をしているのだと言える。

「ヒッピーファッション」は最初から抵抗の意志を示すものではなかった。ここには流行=ファッションが特定の意志表明のアイコンとなる力学が働いていた。ヒッピーファッションがどのようなものに「なったか」について、私が気に入っている一節を引用しよう。

際限なく伸びる頭髪は政府の理不尽な抑圧に逆らっていた。……体制からの弾圧によって、はじめ流行りの髪型でしかなかったものはずっと大きな意味を持つようになる。……連邦政府なりサンフランシスコ市当局が大騒ぎすることの背後にあるものが浮かび上がってくるころには、新しい髪型はただのファッション・スタイル以上のものとなっていた。長髪や立派な口髭は自分たちの思想信条を公にするためのシンボルとなっていた。髪を伸ばすことは、ホモセクシュアルであるとかホモセクシュアルでないとかと示すためのサインではなくなって、自分が人間としての譲れない一線については妥協するつもりがないことを示すための行為になっていた。(Perry, 1970=2021: 238-239)
太字部分は原文だと傍点表記

長髪やタイダイ染めシャツはもはや「ただの」長髪やタイダイ染めシャツではないのであり、このファッションを身にまとうことがすなわち現行体制の否定という思想の強い表明となるのである。

しかも今日なおその意味合いは生きているのであり(2)、単なる過去の流行のリバイバルではない。ヒッピー(ファッション)のリバイバルは、「自由」や「否定」といった理念を再度主張し直す身振りとして今日も意味を持つのだ。その際、我々は『ヒッピー・ガイドブック』にあるような様々な手法を身につけ、能動的にヒッピーに「なる」ことができるのである(Cain and Miternique 2004=2006)。
 
さて、ここからは非常に原則的な話をする。

とはいえこうしたカウンターカルチャー的なものが資本主義に取り込まれ、さらには資本主義を加速させる結果になっていることは頭の片隅に置いておかねばならない。ジョセフ・ヒースとアンドリュー・ポターの『反逆の神話』を参照されたい(Heath and Porter 2004=2021)。ヒッピーファッションがこのように現在資本主義に「包摂」されているだけでなく、その本質としての構造的搾取の観点からヒッピーファッションを見ることも当然必要である。

まずヒッピーファッションが一般に根付いたとはとても言えない。また、現在エコやロハスを喧伝しているのは、リーバイスやナイキといった、ヒッピーの生き方とは真逆の資本主義的企業であることを認めねばならない。とはいえ私はそうした企業の営為が全て無駄だと言っているわけではなく、ファッション産業のかかえる構造的問題を指弾しているのである。田中が述べるように、本質的な意味でサステナブルなファッション産業のあり方を目指すとしたら、大量生産・大量消費社会を変容させる必要があるのだ(田中 2010)。

市場に流通するファッションの主な生産国は中国、ベトナム、バングラデシュなどであり、それはグローバルサウスに依拠した生産様式のもとで生み出されている(2)。確かにファッション産業の隆興とともに、ファッションを身にまとう上での「(選択の)自由」は拡大したかもしれない。しかしその自由とは多国籍企業が先進国民にのみ保証するものではないか? 生産国の人々の「自由」を拡大するものであるだろうか? 社会における自由の実現は不平等に分配されていないだろうか?

エコやロハスといった発想がヒッピー(ファッション)の流行から出てきていることは確かだし、また工藤が言うように、一般的ないし教科書的には、繊維産業の過酷な搾取に対して、私たちは「サステナビリティ」や「倫理的消費」を意識して「適切な消費」を行わなければならないという話になるのかもしれない(工藤 2022: 203-229)。だがそれらさえ意識していれば、先進国の人々が無尽蔵にファッションを身にまとう一方で、バングラデシュをはじめとする繊維産業諸国の人々が火を身にまとうことになっても良いと言うのだろうか。むしろ構造的搾取の問題を考えることから始めなくてはならないのではないのか。そうでなければサステナビリティや倫理的消費といったものも、小市民の罪責感情を和らげるだけの行為となってしまう。

繰り返すが、私たちはこうしたファッション産業の構造的問題を――少なくとも衣服が輸入されなくなってから騒ぎ立てる前には――何度でも反省しておかねばならないだろう。それがいかに不愉快な事実だとしても。搾取の問題はダイレクトに資本主義的生産様式の問題であって、ここを叩かない限り「自由」の実現はあり得ない。それは資本の論理のうちに搾取のメカニズムがすでに埋め込まれているからだ。

こうした事情を考えると、ヒッピー(ファッション)の理念、すなわち「自由」が今こそ求められており、その復権こそファッション業界の課題なのではないか、とさえ思わされる。ヒッピー(ファッション)が社会的記号として、「資本主義にノー!」、「ターンオン・チューンイン・ドロップアウト(目覚め、波長を合わせ、〔社会から〕脱出する)」の姿勢を示すアイコンであること自体は、未だに忘れ去られぬ夢として、その意味を保ち続けているのである。

あるファッションを身につけることで絶えずその理念を想起する、というのはよくある話(制服などを考えてみてほしい)である。今日あらためてヒッピーファッションをやっていくこととは、資本主義を解体することを再び思考することであり、それはつまり資本主義と別の論理を持った集団、いわばコミューンを創設することなのである。

コミューンとは、理念を一定程度共有した人々により共同の「生」が営まれる場所である。そこでは資本主義はもちろんのこと、左翼の前衛主義も不要である。私たちは自由に生きる。やりたいことをやる。必要なものを生産する。資本主義においてホモ・エコノミクスがおかれる敵対的・緊張関係、すなわち資本主義から解放されて、互いの生を肯定する。自身の力能を十全に発揮し、何かを成し遂げ、生を豊かなものとする。こうしたことを可能にするものとして、ヒッピー(ファッション)を身にまといそれを実践すること、その理念を具体化することは今なお重要なのである。

(1)エコロジー運動、反核運動、反戦運動などといったものにその精神は受け継がれている。
(2)こうした構造は、ナオミ・クラインが『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』で述べている通りの惨状である。

Cain, Chelsea and Lia Miternique, 2004, The Hippie Handbook: How to Tie-Dye a T-Shirt, Flash a Peace Sign, and Other Essential Skills for the Carefree Life, California: Chronicle Books.(下條ユリ訳,2006, 『ヒッピー・ハンドブック』,フレックス・ファーム.)
Heath, Joseph and Andrew N.Porter, 2004, The Rebel Sell: Why the Culture Can’t Be Jammed, New York: Harper.(栗原百代訳,2021,『反逆の神話〔新版〕――「反体制」はカネになる』早川書房.)
Klein, Naomi, 2000, No Logo, London: Flamingo.(松島聖子,2009,『新版 ブランドなんかいらない』大月書店.)
工藤雅人,2022,「ファストファッション――ファッションの『自由』がもたらす功罪」藤田結子・成実弘至・辻泉編『ファッションで社会学する』有斐閣.
Perry, Helen Swick, 1970, The Human Be-In, New York: Basic Books.(阿部大樹,2021,『ヒッピーのはじまり』,作品社.)
田中めぐみ,2010,「米国における環境配慮型ファッションの動向」,『廃棄物資源循環学会誌』,Vol.21, No.3, pp.169-176.
鷲田清一,2012,『ひとはなぜ服を着るのか』筑摩書房. 

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