

Articles
パリの高級靴職人から、クライミングの聖地へ:塩田康博がフォンテーヌブローの森で見つけた「本当の仕事」
パリの南郊外に、フォンテーヌブローの森という世界中からクライマーが訪れるクライミングの聖地がある。この地で日々、巨岩に挑む多くのクライマーの足元を支えているのが、クライミングシューズのリソーラーとしてアトリエ「デュエル フォンテーヌブロー」を営む、靴職人の塩田康博さんだ。自身もクライマーである塩田さんが、この地へ辿り着いた理由を聞いた。
PROFILE

塩田 康博(しおた やすひろ)
靴職人
ビスポーク職人の新たなアトリエを訪ねて
パリから近郊線に乗って1時間。フランスの歴代国王が好んだフォンテーヌブロー城がある同地は、今はパリのベッドタウンのような位置付けになっている。列車内もお城が目当ての観光客と、クライミングの装備を持った人、そしてパリと行き来する通勤客が混在している。当初、筆者が塩田さんについて知ったのは、クライミングシューズのリソーラーとしてではなく、パリで働くシュール・ムジュール(ビスポーク)の靴職人としてであった。しかし後に塩田さんは、そのシュール・ムジュールの現場を離れていたことが分かった。

パリの中心部で都会的なものを作っていた人が、なぜ郊外へ、そしてアウトドアの世界へと移ったのか。塩田さんへの興味をより高めながら、8月の高く眩しい太陽の下、30度過ぎの気温の中をフォンテーヌブローにあるアトリエへ駅から徒歩で向かった。
靴職人になるため英文科からイギリスへ
塩田さんの人生の中で、靴というものの存在が大きくなり始めたのは大学生の頃だった。岡山市内で生まれ、関西学院大学の英文科に通っていた塩田さんは、写真や映画への興味とあわせて、服や靴に心を奪われていった。服や靴を分解したり、パターンを起こしてミシンで服を自作してみたりもした。
「手を使ってものを作るということが好きだったんです」
それが、その後の塩田さんの人生になった。
大学生活も半ばを過ぎた頃、同級生たちが会社勤めを目指すなか、塩田さんにその選択肢はなかった。国際ロータリーの国際親善奨学生を勝ち取り、向かった先はイギリスのレスター。靴の学校であるレスターカレッジに通うためだ。
「もう飛び出したくて、飛び出したくて。いろいろなものが影響して海外への憧れが増していたんだと思います。それが一気に叶うのが、その選択だったんです」
1年間のレスターカレッジでの学業を終えて、塩田さんが次に定めた滞在先はフランス。同地でマサロ、コルテ、オーベルシーという靴ブランドで働き、技術を磨いた。
マサロでは3年を過ごした。同業者が集まる場所でマサロの社長と出会い、アトリエシェフのサポートとして、プロトタイプなどを作る手伝いをしてフランスの滞在許可証を得た。コルテには休暇中だったパティーヌ担当の代替要員として入社し、その後は正社員として木型とパターンの製作に携わり5年間在籍した。オーベルシーでの7年間は、シュール・ムジュール部門を復活したいと思っていた同社で、部門責任者として雇われて腕を振るった。

順調にキャリアを重ねてきた塩田さんは、いよいよ独立を考えた。当時所属していたオーベルシーに独立の意思を伝えて、辞めるのを念頭に置きながら残ったオーダーをこなしていた。その時に起こったのがコロナ禍だった。
コロナ禍が変えた人生の方向
塩田さんは30歳を過ぎた頃にクライミングと出会った。オーベルシーの勤務時代に、パリからフォンテーヌブローに引っ越したのだが、その理由もクライミングだ。以前は、週末になるとパリからフォンテーヌブローに向かう列車に自転車を持ち込み、森の中にあるクライミングのセクターに通っていた。
そもそもフォンテーヌブローはパリの通勤圏、それならフォンテーヌブローに住んでしまおうと考えるのも不思議ではない。
しかし2020年、コロナ禍がやってきた。当時「小説のような世界」と形容されたように、社会システムが大きく変わってしまった。
外出禁止令が出され、フォンテーヌブローからパリへの移動はできなくなった。オーベルシーの主な顧客はアメリカと日本。靴をオーダーしたい顧客がパリを訪れることもほぼ不可能となった。会社は経営体力を削られ、疫病に揺れる日々の先行きも見えない。オーベルシーはシュール・ムジュールの部門を止める決断を下し、結果的に塩田さんの独立は1、2年ほど早まった。
少しゆっくりと考える時間ができた塩田さんは、自らを振り返った。
「今までクライミングシューズは自ら直していましたが、その修理された靴をクライミング仲間が見て、『どこで直したの?』とは度々聞かれていました。『自分で』と答えると、『そりゃそうだよね』と。そして『クライミングシューズの修理は扱わないの?』とも聞かれたことがありました」

靴職人として得た知識と技術は、クライミングシューズの修理においては、余りあるほど。しかし靴の修理を生業にする気にはなれなかった。
「私はあくまでも靴職人になりたくてヨーロッパまで来ました。コルドニエ(靴修理屋)になりに来たわけじゃない。実際、フォンテーヌブローでリソールされたクライミングシューズを見ていても、綺麗に修理されているものはそこまでなかった。正直この時点では、リソーラーという仕事には情熱が湧きませんでした」
しかし、ふと思い出した。過去にフォンテーヌブローでのクライミングを通して知り合ったトリノのクライマーがいた。彼の仕事はクライミングシューズにおける、スポルティバとスカルパのオフィシャルリソーラーだった。塩田さんはそのクライマーに連絡を取ってみた。
「トリノにある彼のアトリエへ見学に行ったんです。どんな仕事をしているのか見ていたら、情熱を持って綺麗に修理をしている。木型もたくさん種類を持っていた。こういう環境で仕事ができるならば、自分が見ていたレベル以上の仕事が、リソーラーとしてできるのではと実感しました」
コロナ禍を経て世界が再び動き出していた2023年、塩田さんはトリノのアトリエとパートナーシップを結び、クライミングシューズのリソーラーとして、アトリエ「デュエル」をフォンテーヌブローにオープンさせた。
自分の中で本当のプロになるということ
塩田さんにとっての目下の目標は、靴の修理だけに留まらず、自らプロデュースしたクライミングシューズを作ることだ。
まずはトリノのリソーラーたちと共に、イタリア生産の「Guma(グーマ)」というソールに使うオリジナルラバーを開発して、独立ブランドを立ち上げた。「日本にも広められたらと思っています。スポンサー企業さんがいればうれしいんですけど」と笑顔で語る。
過去に情熱を捧げたパリでの靴職人の世界に、塩田さんはもう戻らないのだろうか。
「終わったと言い切れはしないですが、過去に作っていた靴は、今では終わったことというのが自分の中にあるのは確かです。若い頃のエネルギーの結晶というか。今はプロになれたかなと思います」
塩田さんは過去にも十分にプロだったのではないか。そんな筆者の疑問に対して、「この靴も、あの靴も私が作ったんです」と自らが作った革靴が掲載された、有名靴ブランドが一覧できる図録をめくりながら、さらに続けた。
「好きでやっていたことが形にはなったんですけど、ある程度までいって、連続して続けていくことができなかった。この先、同じ仕事を60歳、70歳までやっていくということを考えたとき、他のことをやりたくなっている自分がいた。その意味では、プロじゃなかったのかなと思います。
しかし、今はプロとしてのものづくりができている。将来的なプランをプロとして立てられているんじゃないかと思っています」

アトリエ内に飾られた、かつて自身が手がけた木型や革靴。存在感を放つものの、それらはアトリエにおいて決してメインではない。「デュエル」という名前の由来を聞いた。
「地域に密着したアトリエにしたくて、フォンテーヌブローの森に関連付けたものにしました。森の中に『デュエル』という名前のボルダーがあるんです。8aという難しいグレードで、チャレンジもできて、誰もが知っている、シューズの性能もシビアに分かるようなボルダーです」
アトリエでは塩田さんが修理の様子を見学させてくれた。各クライマーによって使い込まれたシューズのソールを剥がし、新しいソールを貼り付けて、削って形を整えていく。

塩田さんにとってのクライミングとは何か。
「喜びでしかないです。自分への挑戦が常に続き、チャレンジし続けられることの一つですね」
ソールを圧縮する機械の大きな音が、夏のアトリエに響く。黙々とソールを仕上げていくその姿は、塩田さんがこれまで抱いた意思と偶然、そして挑戦の心が重なり合って生まれているのだ。
Text by 守隨 亨延













