慶應義塾大学 環境情報学部卒業後、メーカー勤務を経て、2012年から16年までデザインエンジニアの山中俊治氏のアシスタントを務める。その後、スコットランドに1年間滞在し、現在はフリーランスとして活動中。
伝えるべきことをよどみなく伝えるための表現を探りながら、「日経デザイン」などメディアへの執筆のほか、展覧会の構成やコピーライティングなどを手がけている。
主な仕事に東京大学生産技術研究所70周年記念展示「もしかする未来 工学×デザイン」(国立新美術館·2018年)の構成、「虫展―デザインのお手本」(21_21 DESIGN SIGHT、2019年)のテキスト執筆など。
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一度は泊まってみたい宿と、常連になりたい宿はたぶん違う。
レビューや口コミが大きな力を持つようになり、昨今はますます「完璧な宿」が求められがちだなと思う。虫一匹いないとか、隣の部屋の音が全くしないとか、朝までしっかり遮光してくれるとか。
ビジネスホテルでも、リゾート地でも、旅館のような場所でも、とてつもなく安価だったり山小屋だったりしない限りは、このような項目が「最低条件」のように扱われ、外れれば★の数を減らされる。こんなことを書いておきながら、たぶんわたしもそういう部分を見てしまっている。でもこの条件だけが宿泊施設の「正解」ではないのはあきらかだ。
ホテルでなく、家やオフィスの物件を探していても、そういう条件上の完璧さみたいな部屋は多い。築浅で、南向きで、駅近、みたいな部屋。たしかに、魅力的ではあると思う。南向きの方が洗濯物も乾きやすい。でも実際に内見してみたら「なんか似たような部屋を見たことがあるね」という感想を抱きがちである。条件を満たせばよいから、ディテールにはこだわらない家が日本中にあふれている。
さて、こんな状況から少し離れた宿に先日泊まった。きっかけは、建築家の宮内義孝さんのFacebookの投稿で、同じく建築家の今泉絵里花さんと共同でリノベーションした宿の内覧会をやるという案内だった。
宿の名前は「月と鮪 石上」。マグロ? 静岡県焼津市は日本一のマグロの漁獲高で、石上という宿はもともと、知る人ぞ知るマグロ料理の名旅館だそうである。改装前から食通たちには有 名で、いわゆる民宿のような雰囲気ながらも、1泊2万円以上で常連が多かったという。今回は、お試し価格で宿泊できる試泊会があるというので、9月上旬にお伺いした。
静岡は富士山が有名だけれど、海を見ながら山を登るような道を走り、小道に入るのを忘れてUターンして、石上には夕方頃にたどり着いた。丸い窓と大きな暖簾が印象的で、ずいぶんモダンに改装したのだなと思ったけれど、玄関から入ったら意外なほどに「ふつう」な感じが漂っていた。この時点で、ちょっと違うリノベーションだなと思った。
なかでも目立ったのは、時代を感じるツヤッツヤに磨かれた廊下だった。いわゆるおしゃれ旅館であれば、無垢の床材やコンクリートにでもしそうなところを、昔ながらの旅館の風情ただよう、ピカピカの木の廊下である。際立ってレトロなその廊下を通って、共用部のラウンジやダイニングを紹介してもらいながら、部屋に入った。
シンプルな内装だった。室内にはトイレもシャワーもない。テレビもブルートゥーススピーカーもない。障子張りで、遮光カーテンもない。ソファもなくて、ラウンジチェアとスツールが一脚ずつ。何もないかと思えば、向かいの窓の先には海が広がり、反対側の窓は一面の緑だった。床に敷かれた和紙畳はほんのりと赤みがかったグレーで、壁も天井もほんの少し赤みがかっている。ふかふかのベッドが、部屋のすみで待っていた。かわいい花も生けてくれていた。
宮内さんは「宿全体を家だと考えるとここは自分の部屋。ほとんどわからない程度に暖色寄りでまとめることで、無意識にでも一息つけるように」と言っていた。引きこもるための自分の部屋ではなく、帰るための自分の部屋として設計されているのだと感じた。
ひらけた共用部のラウンジの窓の外には、廊下まで緑色が届くほどの山の樹々が広がり、ダイニングでは丸い窓が印象的に海景を切り取っていた。外観からは想像できないくらい、切り取られる絵が贅沢だった。お手洗いも大浴場も部屋の外にしかないから、自然と共用部を使うことになる。
今回のリノベーションではまさに眺めの計画がされていて、今まで閉め切っていた窓を透明ガラスにし、引き戸を簾戸(すど)のようにすることで、廊下を歩いていても緑が視界に入る。一番眺めのよかった客室をダイニングにすることで、一日中、丸い窓は海を映している。山の景色と海の景色を、宿泊客は石上にいるあいだずっと堪能できる。
「ダイニング、リビング、トイレ、そして自分の部屋のように、宿のあちこちを楽しめるようにすることで『わざわざ部屋を出る』感じが薄れていると思います」と宮内さんは話してくれた。実際に「部屋にトイレがない!」という不便さは、後述する出来事で帳消しになった。
お待ちかねの夕飯時、料理を運んでくれるタイミングで、女将さんに「廊下は変えていないんですね?」と聞いてみた。なんだかんだ、ずっと気になっていたのだ。女将さんは、丁寧に答えてくれた。
「昔のままです。改装すると決めたときにも、常連さんから廊下だけは変えないでくれと言われました。60年以上、ずっと磨き続けてきた歴史がつみあげられているんです。年月を重ねて、ぴかぴかになった廊下ですから。古いものと、新しいものが融合するような宿になったと思います。新しくはできても、古くはできませんからね」。女将さんの話は、次々と個性のない新しいマンションが建つ都会に住む自分には、なんだか羨ましくも感じた。
マグロづくしの料理は、余すところなくマグロの面白さと美味しさを楽しめた。環境や生態のことを考えると、食べにくい気持ちになる魚であるのも事実で、わたしも実は普段はほとんど口にしない。でもこの宿のように丁寧に余すところなく調理するところであれば、マグロもウナギも全然違うのだろうなと想像しながら完食した。
疲れていて、夕飯後はすぐに眠った。が、朝5時。うるさいくらいの虫の声に、朝日を遮らない障子のおかげか、自宅の遮光カーテンに慣れきっている自分はまぶしくて目が覚めた。洗面所に行こうとメガネを探してカギを開けて、めんどくさいなと思いながらも部屋の外に出たら、例のダイニングの丸い窓から、ウソみたいな朝焼けが見えて急いでカメラを取りに戻った。
部屋の外に出なかったら絶対に見られなかった光景で、建築家にしてやられた感があって悔しくすら思った。ゆっくりと赤い閃光が動くのをしばらく眺めていた。この窓の景色だけでも、来てよかったと思える体験だった。
「『月と鮪』という名前は、鮪にも月という文字が入っているから と説明してもらったんですよ」と女将さんがリノベーションの際に変わった宿名について話してくれた。クリエイティブディレクションを担当した、博報堂ケトルの皆川壮一郎さんたちのアイデアだという。たしかに!と新鮮な視点をもらった。もともと、空を眺めることを想定していた場所だったのだ。
清々しいほどに客に媚びず、でももてなしの態度を全力で伝えてくれる、そんな宿だった。それは夕飯のときにテーブルに敷かれていた女将さんの手書きの文字からも、そして、子どもが忘れたぬいぐるみを送ってくれた手紙からも見て取れた。
「ドヤらないリノベーションを目指したんです」と設計の今泉さんは言っていたけれど、また行きたいなと思える宿は、目新しい派手な仕掛けのある場所とは限らない。過去を未来に引き継ぐためのリノベーションを施された石上から、海と山と空を眺める。
月と鮪 石上
静岡県焼津市小浜1047
https://goo.gl/maps/71FzPBbUaJwwy1CP9