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京都、東京、そしてパリへ:デザイナー岡本圭司、20年の覚悟と回り道
パリ1区、パレ・ロワイヤルからほど近いクロワ・デ・プティ・シャン通り34番地。曲線が美しいブルーグレーの窓枠が印象的なブティックが、岡本圭司さんの営む「ヴォルテラーノ」だ。
多くの観光客でにぎ わうルーヴル美術館の北側エリアとは対照的に、この通りは静かな空気に包まれている。隣接するフランス銀行をはじめ、文化省などの行政機関が集まる官公庁街ならではの落ち着きが漂う。
そんな地区に、ぽっとあかりを灯すように「ヴォルテラーノ」は立つ。ドライフラワーが彩る店内は、パリにありながら南欧の情緒が感じられる。人懐っこい笑顔が印象的な岡本さんにお話をうかがった。
PROFILE

岡本 圭司(おかもと けいじ)
Vorteranoオーナー、服飾クリエイター
憧れたイタリアと20代でのミラノ滞在
日本からパリへと渡るクリエイターの道のりは、大きく2つに分かれる。若さを武器に未熟なまま飛び込み、現地でもがきながら道を拓こうとする者。そして、日本で経験を積み、盤石な技術と共に満を持して世界に挑む者。48歳でフランスに来た岡本さんは、後者の道を歩んできたデザイナーだ。
しかし、前者の時代もあったと振り返る。
京都で仕立屋を営む家に生まれた岡本さんは、東京で紳士服の専門学校を出た。その後の 2年弱をイタリアのミラノに滞在。日本へ戻ってからはファッション関連の会社に就職して、3年ほど修業してから京都の実家を手伝った。
「イタリアでの生活は学生に毛が生えたようなもの。スタージュ(インターンシップ)をしたり、働きたいと自分の作品を持って大手メゾンに売り込みにいったりしていました。ただ経験もなくて、親のすねをかじる自分自身に限界を感じて日本に戻りました」

京都では仕立屋としての仕事を続けながら、自身がデザインした服を扱う、今と同名の「ヴォルテラーノ」というブティックを開いた。ただイタリアへの未練も捨てきれず、日本帰国後にミラノのファッションウィーク(メンズ)で自身がデザインした服を披露する機会を得たこともあった。
「ファッションウィーク期間中に、自主的な形で服を発表していたところ、イタリアファッション協会の人の目に留まり、正式な協会登録の誘いを受けたんです。当時はイタリア人のプレスと抱き合って喜びながら登録をしましたが、金銭的なこともあり、コレクション発表は5回で終えました」
クリエイションの発表の場を求めて東京へ
京都で10年続けたブティック。しかし、その実態は岡本さんの創作の場とは言い難かった。売り上げの大半を占めていたのは オリジナルの服ではなく、自ら顧客を巡って仕立てるオーダースーツ。「自分の作るものが伝わらない」という想いと、ビジネスという現実とのジレンマに、彼の心にあったファッションへの火は消えかけていた。収益性の高いオーダースーツ専門店に徹するべきか。その考えが頭をよぎったとき、彼は「やはり消したくない」と自らの情熱を再確認し、京都の店を閉めて東京へ向かった。
東京では、CMや映画の衣装制作で成功を収め、経済的にも安定した。だが、クリエイターとしての葛藤は深まるばかりだった。「若い頃に憧れた、かっこいいブティックで自分を表現したい」。その想いと、順調な仕事との間で揺れ動いた末、彼は再び大きな決断を下す。

その決断こそ、フランス・パリへ渡ることだった。
しかし、それは京都から東京へ移ったときのような、希望だけを胸にした移住ではない。東京で過ごした10年間は、来るべき挑戦に向けて、技術と「折れない心」を鍛錬するための、長く周到な準備期間でもあったのだ。
10年かけて折れない心を鍛錬するということ
なぜイタリアではなくフランスだったのか。岡本さんが20代を過ごした頃はイタリアブームの最中だったが、東京で過ごすうち、最終的な目的地はファッション関係者が発表を行う際に頂点ともいえるパリへと変わっていった。東京での10年間は、来るべき挑戦への準備期間だった。まとまった資金を貯めると同時に、海外では自分自身が求める完成度を日本以上に機械や特に人に頼れない事態を想定し、服作りの全工程を自らの手だけで完結できる技術を徹底的に磨き上げた。
しかし、それは単なる技術習得以上の意味を持っていた。パリで「絶対に心が折れない」ための、覚悟を鍛える期間でもあったのだ。
岡本さんは、京都での10年で商売の基本と人間関係の重要性を、そして東京での10年でクライアントの要求を形にする確固たる技術を学んだ。その両輪があって初めて、海外で戦うための精神的な土台ができたという。
そして2018年に渡仏。コロナ禍や、外国人という立場での店舗探しなど、心が折れそうになる困難は続いた。しかし、「東京で10年準備した」という自負が彼を支え、2023年、ついにパリに自身の店を構えたのだ。

こうして長年の夢だった、自らの店をパリに開いた岡本さん。しかし、そこでの日々は、新たな発見と同時に、日本で培ってきた仕事のやり方との「違い」を実感するものでもあった。
フランスで実感する、日本との「違い」
パリで自身の店を構えた岡本さんだが、自身の原点である「仕立屋」の仕事に、当初は言語の壁を感じていた。顧客との会話から好みのニュアンスを汲み取るオーダースーツは、フランス語では日本同様のクオリティを提供できないからだ。しかし、オリジナルの既製服であれば話は別。スタイルを気に入った顧客に対し、ピンワークで体に合わせながらカスタマイズを施すコミュニケーションは、フランス語でも可能だ。最近は、岡本さんのスタイルを知った上で信頼関係が生まれた顧客からのオーダーならば、言葉の壁があったとしてもそれを埋められることも増えてきた。
服の売れ方にも、日本との顕著な違いがある。日本では売り上げが上がる冬物。パリの冬は、気候的におしゃれよりも防寒が優先になり売れ行きが鈍いと感じる。その代わり、日が長く冷涼な日も多い夏は外出機会が増える。ゆえにジャケットが売れるという日本とは逆の現象が起きる。

フランス国内での地域差も大きい。シックな色を好むパリとは対照的に、岡本さんの店には色鮮やかな服を求める南仏出身の客が多く訪れるという。以前ニースに2年間滞在していた彼は、「だったらお店はニースでも良かった」と笑いながら語った。
すべてを服に注入することが岡本さんの営業
店の奥で岡本さんの話に聞き入っていると、外の扉が開く音がした。彼は私に目配せして、2人組の女性の白人年配客に、しばらくの間対応した。パリで店を開いてからというもの、岡本さんがデザインした服を手に取って「あなた日本人ね」とフランス人から言われることが多いそうだ。「高田賢三さん、山本耀司さん、川久保玲さん、三宅一生さんなどのおかげです。彼ら先人が、パリで日本人として日本の服作りの社会的地位をしっかり築き上げてくれた。ファッションに造詣が深いお客様だとそれを知っているから、このクリエイションは日本人のものよねと言ってくださる」
ヴォルテラーノがあるクロワ・デ・プティ・シャン通り34番地は、奇しくもKENZOが本店を構えたヴィクトワール広場から徒歩すぐの場所でもある。

「結果的にこの場所は大正解でした。それこそサンジェルマン・デ・プレ、マレ、パッシーなどパリ市内のさまざまな場所を探したものの、契約できる物件がなくて。結局はご縁でここに落ち着きましたが、ここの良さはこの辺りに住んでいる人に加えて、周辺にある星の数が多いホテルに泊まる旅行者もいます。
加えて、パリに来る日本人のお客様にとってもイメージがいい。こんな小さな店でも、ルーヴルから徒歩5分のところに岡本君が店を出したというのを、誇らしく思ってくれるんです」
岡本さんは場所を変えることで経験とステージを変えてきた。失敗と思えるような過去の出来事があっても、それなしでは今の自分はないという。
「私たちは商売ですから、納期と予算という制約の中で服を作ります。そのためには、眠い目をこすって作業するような自己犠牲も伴います。それでも、完成した服をお客様が喜んでくださる。私にとって服作りは、単なる綺麗事ではなく、生きていくための糧そのものなのです。
仕事を終えた後には『ああすれば良かった』という後悔が常につきまといます。だからこそ、技術、クリエイション、そしてお客様への想い、そのすべてを服に注入する。それが、今の私にできる唯一の『営業』なのです」

最後に、岡本さんに今の肩書を尋ねてみた。
「デザイナー、クリエイター、技術者、あるいは営業マン。私が何者であるかは、見る人が感じたように受け取っていただければ良いんです。ただ、ここフランスでは多くの人が、私を『クリエイター』と呼んでくれますね。『この服と店の雰囲気をあなたが作ったのなら、あなたはクリエイターだ』と」
店舗の奥、赤いエスプレッソマシンが置かれたカウンターの向こう。その作業台で、岡本さんは今日も手を動かし続けている。
Text by 守隨 亨延













